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自民党総裁選が、どのような結果となるにせよ、一部のマスコミや野党が指摘するように「今秋以降憲法改正は政治日程に浮上し、重要な政治課題になる」というのは間違いはない。
しかし、これは、「憲法改正」がすぐさま現実のものとなる。というものではなく、反日マスコミは、国民を無知蒙昧な民と見做して、「憲法改正反対キャンペーン」をこれまで以上の規模で進めてくるものと見做して間違いはない。 そこで、我々は、まず基本的な「憲法」についての知識を再確認しておくべきものと思う。 まず、第一に「自主憲法制定」と「憲法改正」の違いは何か? これは、例えるならば、「新築」と「リフォーム」の違いとするのが最もわかりやすい説明だと思われる。(私自身、その説明がもっともしっくりと行くものであった。) 「自主憲法制定」が全文を一気に改正する。のに対して、「憲法改正」は、各条文ごとの改正を行うものである。現状言われている「憲法改正」は、「憲法改正」のための法律に従い、各条文の改正とならざるを得ない。 現憲法は、「占領行政基本法」であり、これは、「戦勝国による占領の終了」つまりは独立回復によって本来無効とされる。(一旦、大日本国憲法に戻し、その後、大日本国憲法の改正がなされるべきなど)という考え方は、主張として酌むべき点は多々あるのだが、現状の法律下では不可能なのである。 従って、「自主憲法制定」に近い形式としては、「憲法改正」を順次行っていく、いわば「段階的憲法改正」が考えられる。 「自主憲法制定」など現状不可能なのだから、そのような説明は不要と思われるかもしれないが、現在行われている自民党の総裁選において、「憲法九条」に関して、安倍総裁の主張するところの改正案(すなわち、現憲法の一項、二項をそのままとし、新たに「警察組織の延長線上にある」自衛隊の存在を明記する)と石破氏の主張(第二項を改正し、「軍組織」の存在を認めるものとする)との違いは、「自主憲法制定」と「憲法改正」のミニチュア版ともいえる違いとも思えるからである。 私は、安倍総裁の「改正案」は「段階的改正」つまりはリフォームであるのに対して、石破氏の「改正案」は新築と見做すのが適当に思えるからである。 どちらにしても、「新築のほうが良い」このように考えられる方は、決して少なくないはずである。だが、ここで現実問題として、新築するのには「頭金が不足している」という現実に目を向けなければならない。 ここでいう「頭金」というのは「国民の支持」と考えていただいてよい。 残念ながら、現状においては、石破氏の「改正案」は、憲法改正に必要な国民投票での過半数を確保できる。という情勢にはない。 では、現状の生活レベルに合わない(国力と不釣り合いであり、国際情勢の変化に対応できない)「現憲法第九条」を現状のまま、放置してよいのか? ここが、石破氏に問われるものである。 (私は、これまで自民党が、安倍総理が、十分に国民に「憲法改正の必要性」を訴えてきた。とはいいがたい。と思っている。これまでの自民党は「頭金がないからリフォームで、しかも小規模で」としてきているのは、国民は憲法改正に反対で、理解が得られない、だから、国民が理解できる範囲での小規模な貝瀬案を提出するのが良い。という国民に阿っているだけではないかと感じているのである。(十分な説明もなしに、理解などできようはずはない。真摯に向き合い、国民を背得するという姿勢は弱かったものと思う。 私が、石破氏に期待するのは、本格的な国民への説得である。 本当に国民は理解していないのか? これは、実は 国民を信じてはいないのではないか? と感じるのである。 ほとんどの国民は、「現憲法の条文にいかに書かれていようとも国家の存亡という事態に対しては、適切に対応してくれるもの」と信じているように思われる。 ここで第二の点として、「現憲法解釈」について少し触れておかなければならない。 「現憲法」は「座して死を待つべきではない」という現憲法よりも上位の概念を念頭に置いたものである。いまだに少なからぬ方々は、「現憲法」において「自衛権」が認められる理由として「芦田修正」つまりは第一項に基づく「軍」を持たないと解釈されているようだが、「安保法制」に伴う安倍総理の説明でも明らかなように、我が国政府は、この説を採用していない。のである。 私は、以前、石破氏もこの「芦田修正案」を採用していた記憶がある。が、明らかに誤りである。 その他、現憲法にある「幸福追求権」に伴うものなど珍説もいまだに多く見受けられる。 この辺りは、「現憲法」などより上位の概念という「現憲法とて絶対のものではない」ということとともに覚えておいてもらいたい。つまりは「現憲法」は「現憲法」だけで帰結できないものなのである。 いまだに、議員及び議員秘書の間でも、このあたりの過ちを犯している方はおられるのが現状である。 改憲派のなかで、「国民不信がみられる」と書いたが 一方の所謂「護憲」とされる勢力だが、これまた、「国民投票」を実施すれば、「国民は改正に賛成」すると見做しているかのようである。これまた、国民を信用していないと言わざるを得ない。(そうでなければ。「憲法改正を国民投票にかけるという国民の主権の行使」にすら反対する理由が見当たらない。) 我が国の「憲法改正」は、この改憲派、護憲派ともに「国民への不信」を前提にしている点が極めて異様であり、異常な点であると思う。 そしてそのことは「改憲」の中に「護憲」が「護憲」のなかに「改憲」が一定の存在を示していることを意味するのである。(意識されている方は少ないだろうが) このような「国民への不信」を石破氏には打ち破ってもらいたい。 完全を期す必要はない。(それはのちに説明する)完全を期そうとすれば、これは、私が批判するところの「ハードル上げ戦法」となってしまう。 石破氏は、UFOからの攻撃に対して、「どの法律が適用可能か」を真面目に検証される方であり、沖縄における「抑止力と負担」の問題に対して、「負担は、事件や騒音など目に見えるものであるのに対して、抑止力は目に見えない性格がある」というかなりわかりやすい説明をされる方である。 現憲法では「国民が当たり前に実施してくれると思い込んでいるこのようなこともできない」という実例を示し、「軍組織」と「警察組織」の違いを分かりやすく説明してくれることを望むのである。(書かれていることだけできる組織と、書かれていないことはすべてできるという組織が、ともに実力行使を行った場合に、どちらがどれほど優位な立場になるのかなど) ただ、石破氏に懸念がある点でいえば、「民主主義とは国民の生の感情を反映すること」と誤った解釈をしているかに見える点である。国民感情を生のまま政策に反映させない。これこそが民主主義の要諦なのである。(感情と政策は別次元にある)多くの国では、そのために、国防の重要性を国民に説き、「祖国が失われる」とは一体どういうことなのかを解き、我々が命を賭すだけの価値あるものである「祖国」の歴史・文化を教えることになっている。 戦後日本が。「教育」の中でおざなりにして来たこと、この重要性にも目を向けていかなければならない。 また「現憲法」下で、我々にとって好ましくない事態がいかに発生しているのか? 「領土の不法占拠」「拉致」などは、その典型と言えるだろう。 kぽれで我が国は、本当に国民の生命財産を守ってきたのか? 「現憲法」にその原因の一端があるのではないか? このような真実に目を向けることが、私は「憲法改正」にとって、極めて重要な事柄であると思う。 石破氏は「緊急事態条項」に憲法改正の優先順位を上位に置かれているようであるが、この「緊急事態条項」とはどのようなことを言うのか? これはいわば、「有事の法」を別に定めることにある。 「平時」では禁忌である例えば「移動の制限」などを法律として、可能にする項目を書き加えることである。現状では、「衆議院議員の任期」ばかりが、中心議題となっているかの世に見えるが、「東日本大震災」でいかなる不都合が生じたのか>現在の北海道で発生した巨大地震による電力不足に対して、「緊急事態条項」が存在すれば、何ができるのか?を私は、石破氏にはぜひとも語ってもらいたい。 安倍総裁は、自らの「憲法改正案」は、「憲法改正基本的な現状を変えるものではない」「憲法改正と主張されるが、「何か変化」がなければ、「必要はない」という意見を論駁できない。安倍総理は、「防衛省の庁からの昇格に関して、「変化する」ものであるとする主張を展開していたと私は記憶しているのだが、今回もまた、積極的な意義について、もう少し語るべきであろう。 私は、三島由紀夫氏の市ヶ谷での演説に「自らの存在を否定する憲法」という言葉があったと思うが、これが少なくとも解消される。この点はもっと「説明すべきであろう」と思われる。(そうであるからこそ、自衛隊幹部の方々や、自衛官OBの方々が積極的に支持しているのではないのか。。。モチベーションの違い。という簡単な一言ではないはずである。) 「現憲法」もまた「国家の象徴」の一部である以上、「国家を守る席九」を帯びる 自衛官の方々には、「名誉」が必要である。東日本大震災の際に、今上陛下が「自衛隊」を最上位にしてその災害復旧への努力を称えたところで、その地位については天皇につながる組織であることは明確になされたものと思う。次は「名誉」なのである。 安倍総裁はまさか、と思うが「自衛隊を明記する憲法改正」によって、自衛隊の存在は、下位法である「自衛隊法」によって示されることになる。これをもってして、「憲法改正」という厄介な作業を伴わずして「自衛隊法」の改正によって、性格を変更できる場度とは考えていまいと思うが、万一そうであるとすれば「姑息」である。自衛官に対する背信行為である。と言ってもよいだろう。 「警察組織」(ポジティブリストによる)から「軍組織」(ネガティブリストによる)への変更は少なくとも、「国民投票」にかける「憲法改正」でなされるべきことである。 今後の道筋として、「段階的憲法改正」の一歩であることを認めるのか否か明らかにすべきものと思う。 私は、十分に説明すれば国民の多くは理解し、納得するものと思う。(自衛官に名誉と地位を与えることに多くの国民は反対しない。これは憲法学者なるものが、いかに「自衛隊違憲論」を述べようが、マスコミがプロパガンダを垂れ流し続けようが、世論調査で一貫して自衛隊を支持してきたことd¥が物語っているのである。) 「国民不信」の「憲法論議」から「国民を信頼しての憲法論議」へと歩を進める。 私は「憲法改正」について、これこそが最も重要な点であると思う。 「憲法改正」が一部の保守派の専有物などであってはならないのである。 その際に ・「正義の戦争」というものは存在するのか? ・「正義に愚直な戦争」と「怠惰な平和」のどちらを選択するのか? 私は、「現憲法」とは「戦争も平和も真剣に考えることを放棄した」ものと見做していることは、」何度か書かせていただいたが、「戦争と平和」を真剣に考えることが、「憲法改正」に求められる要諦であると思う。 「戦争なんて考えることすらダメ」というような「言霊信仰」は、その言霊信仰を共有するものに対して のみ「有効」なのであって、そうとは考えない。我が国を除くすべての国々には「理解すらされない」のである。 「現憲法」はマッカーサーが12歳の少年と見做した「日本人」に強要したものである。我々は、いつまでも12歳のままでよいのか? ピーターパン・シンドロームは、「夢の中」でのみ、通用する。私はマッカーサーが証言したように我が国は、かつて少年でしかなく、彼らのロジックを理解しなかった。とは考えていない。 しかし、彼らの理解するロジックは、どのようなものであったのかをいま改めて理解しておく必要があると思う。 彼らは、その国が、必要と思い、軍事力をもって、それが取得可能とみれば、軍事力の行使は当然である。このようなロジックなのである。 そして、現状、ロシアやシナ、北朝鮮はそのようなロジックを展開しているのではないだろうか??? 「現憲法」からの覚醒とは、「綺麗事」ばかりではない。いわば、このロジックの近いとそれに対する否定を伴うのものでもある。時代が70年以上進もうが、国際社会とは大国間の「生存競争」の中で翻弄されるという実態は何らの変更もされていないことと向き合うことでもある。 その時、このブログで何度か言っているように ・我が国が我が国として生きるとはどのようなことなのか? ・我が国は、「大国」として生き残るべきなのか? を突き付けられるのである。 「憲法改正」さえ行えば、我が国は「立派な独立主権国家になる」あるいは「米国と対等な国になる」のではない。そのような意思をもって「憲法改正」を行うのでなければならない。あくまでも「憲法改正」は目的にあらず、手段なのである。(立派な独立主権国家とは何か?米国との対等な関係とは何か?という定義付が求められることになる。「核保有国」英国は、その経済規模、軍事力から、米国とは「対等」とはみなされていない。勿論、一つの国として、対等ではあるにしても。。。。 多くの日本人が望むと思われる「米国との対等化」これ自体、民主党政権時代「我が国が主張したきことをもっと主張する」ことと解し、日米同盟に大きな遠心力を働かせた。米国は我が国の役割拡大を「対等化」と見ているからである。 勿論、このような議論が、拡大してしまうと、吉田元首相のような「ハードル上げ戦法」に引っ掛かり、我が国は、「米国のように離れないのだから、何もできない」かのように思い込んでしまうことともなりかねない。 だからこそ、我々が求める「米国との対等化」については、我々は考える必要がある。米国との関係は、ペリー来航以来、我が国にとって「国を悩ませ続けてきたもの」である。「適切な距離をとる」言うは易し、行うのはこれほど難しいことはないであろう。こんな安易な言葉に騙されてはならない。 「現状追認」だけを目的とする「憲法改正」は「戦後日本」の構造改革の柱足りえない。 このことも加えておかねばならない。 現状において、我が国は「憲法改正」について傾注するエネルギーは無駄でもあるかのようなプロパガンダに晒されているように見えるが、戦後、米国の内向き化、アジアにおける米国への対抗勢力の台頭という事態を受け、必要に迫られているのである。 ここには、現憲法とは 1.右肩上がりの経済 2.冷戦構図 3.アジアにおける米国の圧倒的プレゼンス これが下支えしてきたことを示しているのである。 かつて、社会党は、「日米同盟の解消」「自衛隊の否認」などを主張していたが、これは驚くべきことではないのかもしれないが、「米国は、そんなもの認めてくれないだろう」との前提で、主張していたことであることが、わかっている。だからこそ、村山内閣で自ら責任ある立場として国家の統治をおこなおうとした際に、今までの主張を取り下げざるを得なかったのである。 いかに無責任に言葉をつないでいただけなのか??? 私は、ここにも「戦後日本」の「甘えの構図」を感じとる。 「米国が我が国の核武装に反対」しているなdぉと主張しながら、「米国からの制裁」など何も考えずに「核武装可能」などと見做すのもまた「甘えの構図」でしかない。 「憲法改正」は戦後日本の「甘えの構図」から自らを脱する意思をもって行われるべきものである。 となれば、「メリットばかりではない」こと。「一方的な願望であってはならない」こともまた理解されるだろう。 国民に覚悟があるのか? 当然そのような覚悟をこれまでほとんど求めていないのだから、持っていないと考えるのが自然である。 こう見てくれば、「新築」など夢のまた夢でしかなく、「リフォーム」が関の山であることは理解いただけるものと思う。 「頭金」は当然教育によって、ためなければならないが、現状すぐ調達できるというものではないだろう。そして、国民が持つべき覚悟を涵養する努力は続けなければならない。 私は、朝日新聞にしても、一部の保守派にしても「国民は、自分の主張をただ聞いている存在であればよい」このような気分に浸っているように思えてならない。(私はこれをエリート意識とは呼ばない、自分が説得する能力を欠如させているだけでしかない。) 「国民は考える必要はない」つまりは思考停止を求めることである。 これは、自らの主張が、いかがわしきものであり、そのようにしてしか実現できなという主張そのものが誤りであることを証明するものでしかないと思っている。 これを傲慢と称するのは、誤りである。単に自信がないだけなのだから。。。「小心」と言っておいたほうが良いだろう。 これでどうして国民を理解させ説得できるというのであろうか??? それが可能と思うのは勝手だが、そんなことが不可能なことは、自身がそのような立場にあったらどうかを考えれば、すぐにわかることである。 これまた基本は「国民不信」でしかない。 文責 上田 和哉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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