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テーマ:病と暮らす(29)
カテゴリ:病と暮らす
「がん」っていう言葉は、私に予想以上にダメージを与えました。
いままで、手術や入院さえしたことのなかったのに、いきなりすごい病名を告げられ 自分では冷静だったつもりでも、やっぱり平常心ではいられません。 私の持っていた「がん」のイメージは、再発とか転移とか、副作用とか 最終的に「死」をも連想させる悪いイメージばかり。 今思うとかなり大げさだけど、そのときは初期だとか、子宮頸がんがどんなものかとか、 そういうことは関係なく、ただただ怖さが迫ってくる感じでした。 自分の体にがんがある。と思うとたまらなくて、一刻も早く取り除いて欲しいし、 悪いところをやっつけて欲しい、元のフツウの状態に戻して欲しい、という強い思いに駆られました。 だけど、PDTを選択したら少なくとも2ヶ月は病室が空くのを待たなければいけなかったし かといって、早産や流産の可能性のある円錐切除をするのも私はイヤでした。 一人で悶々と考えてもらちがあかず、同じような病気をした姉に 告知された日の夜電話しました。 これまで検査した経緯を知っている姉に「子宮がんがみつかったって」 と言った途端、今までこらえていたものが一気にあふれてきて涙が止まらなくなりました。 泣いて次の言葉が出ない私に、「初めは驚くけど初期だから大丈夫だよ」と励ましてもらい やっと少し落ち着つことができたのです。 いざというとき相談できる相手がいるって、なんて心強いんだろう とあの時ほど感じたことはありません。 姉の助言もあり、翌日から治療についてもっと詳しく調べることにしました。 なにせ、このときの私には告知のときに医師から説明された情報しかなかったので。 他の病院で、もっと早く治療することができないのか問い合わせてみると、 子宮頸がん初期の治療では、円錐切除が一般的で、PDTという治療法は、 全国でも数箇所しか行っていない先端医療だということがわかりました。 また、診察した医師からも電話があり 「不安だと思うけど、ゆっくり決めて大丈夫です。 ネットでもPDTや光線力学療法と検索したらいろいろ情報がありますよ。」 と教えてもらいました。 図書館にある医学書などで、子宮頸がんのことを調べ「生存率」という言葉に クラクラしながらも、初期では5年後の生存率ほぼ100%だということも分かりました。 そうやって、少しずつ調べていくうちに、私の体にある得体の知れない恐怖の正体が わかってきたのです。 「がん」と向き合うって、多分進行が進んでいればいるほど怖いことだと思うので 一概には言えないけれど、私の場合はそうやって相手の正体を知ることで向き合い 恐怖から解放されました。 また、自分の体は他でもない自分で守ってあげなきゃ。とも強く思いました。 医者や病院は、もちろん最大限の努力をして助けてくれるけど、 主体は常に患者である自分なんだ、と。 今回、がんという病気でたくさんのことを学んだ気がします。 さて、病気のことも治療法のことも調べて、十分検討した上で PDTを選べる病院にたまたま初めに受診したのは、私にとってラッキーだったと思い そちらを選択することに決めました。 しかし、もう1つ気の重い作業が残っています。それは両親への報告。 その時我が家は、祖母の具合ももうだいぶ悪く、姉の結婚式や弟の受験などを控えており 母はストレスで円形脱毛症になっちゃった、と話していたばかり。 だから、また心配事を増やしてしまうことが本当につらく、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 何度か帰省したものの、結局言い出せず時間ばかりが過ぎていきました。 9月も終わりのことでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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