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カテゴリ:プレイバックシアター
今日は、
この2本のストーリーを見るために、 前回の自己発見表現講座で、 プレイバックをしなかったのかもしれない。 まるで今日のために、出し惜しみしていたかのよう。 感情を増幅させ、ある方向性へと自然と導くために。 そのような連続性や、 織り成すストーリーのようなものを、 日常も含めて眺めてみると、面白い発見を時折する。 プレイバックシアターは、日常の些細な出来事から、 誰にも語ったことのない、人生の痛みを伴うストーリーまで、 幅広い射程を持っている。 そのどちらが、軽いとか重いとかのレベルではなく、 どこを切り口にしても、 語ってくれる、その目の前に存在する人が重要であれば、 自ずと味わい深い、プレイバックとなっていく。 25年間ずっと持ち続けた、ハートの傷をこの場で明らかにしようというのだ。 その覚悟が、真実への眼を開いてくれる。 語っているときのテラーと、 ストーリーを見終わったあとの、テラーの表情の違いに、 同一人物ではないかのような、錯覚を起こさせる。 恋愛感情にある時に、 多くの人が体験する独りよがりな妄想。 相手への感情が強ければ強いほど、妄想は拡大していく。 その一方的な思いが、 時には、2人にとっての関係性にダメージとなる事がある。 渦中にあっては、気づかなかった視点だ。 自分自身の姿を距離を持ってみることで、 オリジナルの智慧がやってくる。 ハートブレイク。 「愛情に飢えていたからだ」「彼女を母親に投影しているんだ」 などとという短絡的な原因を、犯人に仕立て上げるのは、 無実の可能性があるのに、有罪にしてしまう乱暴さに似ている。 「原因があって結果がある。」 という2元論的な視野から離れて、 「コズミックに見渡す」ことは可能だ。 その後、語られたストーリーは、 自分の無意識な行動パターンを、 分析して、原因を追究しようとするよりも、 はるかに有益な発見が、伴っていた。 幼い頃に経験した、母親との関係。 語り始めの時には、 責任を追及するかのような、被害者意識からのストーリーだったが、 ストーリーを見終わったころには、すっかり表情が和らいでいた。 当然のこととして享受していた、 母の愛ある行動が、記憶に浮上してきたというのだ。 痛みを伴う感情は、記憶にとどまりやすいのかもしれない。 それらは、語られることなく、 深くこころの澱として、ねっとりとこびりつく。 強烈な体験は、記憶に残りやすいのかもしれない。 だが、日常の、 愛に裏づけされた生活そのものの恩恵を、 再び思い出すなら、 人生が愛に満ちているのに気づく。 ただ気づくだけで、誰も責める必要などないことに。 自分自身を責めるところから離れて、 享受した愛を思い出そう。 「癒しの劇場」と呼ばれた、愛に溢れるプレイバックシアターで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.02.14 16:35:22
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