制作準備ノート
以前、ディクスン・カーの読者から、私がブック・ジャケットの絵をどのように制作しているのか、と尋ねられたことがあります。早川書房版も東京創元社版も、小説のなかの場面を描かないという方針を採っているので、読者のなかにはイメージをどのように決定するのか、すこしばかり関心をもたれるのかもしれません。早川書房版の場合はタロットと〈物〉の組み合わせで、小説のなかに出てくる物を、時代考証をふくめてできるだけ正確に描こうとしています。東京創元社版もその点は変りませんが、取り上げる対象がもうすこし幅がひろい。 これらの制作のために、私は小説を精読して、準備ノートをつくっているのです。きょうはそのノートを披露しようと思います。考証のための条項を書き連ねているだけのもので、みなさんがご覧になって面白いものではないでしょう。しかし私が絵筆を執る前の作業はおわかりになるだろうと思います。 『ビロードの悪魔』のノートをそのまま書き抜いてみます。--------------------------------------------------------------『ビロードの悪魔』1951年刊:後記に書誌あり。1925年の物語。作中に1675年のこと。(1)抱水クロラール(睡眠薬)(2)ケンブリッジ大学パラセルサス学寮、キーブ学寮 パラセルサスは日本では通称パラケルスス。(3)ハーウェル著『国事犯裁判』 キャプテン・ジョンソン『ニューゲイト監獄暦報総録』(4)タペストリ・チェア(5)帝王紫(インペリアル・パープル)(6)ジョン・コットンのパイプ(7)ペルメル街の南側(8)ベルギー北西部イープルの激戦。毒ガス使用。(9)火口箱(ほくちばこ)(10)ルイーズ・ド・ケルワール風髪型(英国チャールズ2世の側室)(11)ホワイト・ホール宮殿(チャールズ2世の墓がある?) ‘The 18th Century’p.48(12)クレメンズ・ホーンの剣。英国最大の刀匠。p.56(13)ホワイト・ホール宮殿王妃の間の汲み上げポンプ付き風呂(14)西大門の悪魔亭(テンプル・バー・デヴィル) チャンセリー・レイン角のキングズ・ヘッド酒場(15)砒素(16)ニュー・エクスチェンジ(陳列場)(17)サック牛乳酒(サック・ポセット)→ 熱い飲み物 p.77 卵4コ泡立て、半パイントの牛乳と棒砂糖4つ、サック酒1/2ビン(18)円頂党(19)グリーン・リボン・クラブ。シャフッツベリー卿とバッキンガム公がキングズ・ヘッド酒場で創立した党派。 Green Ribbon Club, ブリタニカ5、P453(20)ホルバイン・ゲイト スプリング・ガーデンズ(21)ウィチャレー(1640~1716)、『森の中の恋』(22)サマセット・ハウス(旧館)(23)セント・クレメンツ・デインズ(24)死人小路(デッド・マンズ・レイン)の〈ブルー・モーター〉→薬剤店?(25)ストランド街 ‘London 1900’Fig.2, ブリタニカ14、p266(26)フリート街。テンプル近くアルセイシア地区。 ブリタニカ14、p266 (27)シターン(ギターに似た楽器。シタールのことか?)(28)ベッドラムの瘋癲病院(29)ルーパート(1619~82)、内乱のとき、伯父チャールズ1世を援助。ネーズビーの戦い、オーケー竜騎兵。(30)マスケット銃(31)ピーター・リーリー卿(1618~80、オランダ生まれ、チャールズ1世の宮廷画家)(32)法学院広場(リンカンズ・イン・フィールズ)(33)ホワイトフライアーズのドセット・ガーデンズ(34)サザンプトン街の〈ラ・ペル・ポワトリーヌ〉。マダム・ボータンの店。(35)ウィリアム・ダヴナント卿(1606~68、オペラで名高い) Sir.William D'Avenant、最初の英語劇の提供者。シェイクスピアが教保(名親)。またシェイクスピアの息子であるというゴシップがある。1913年、Arthur Achesonは、彼の長命だった母ジェーンは、シェイクスピアのソネットに登場するdark-ladyと同一人物であるという説を打ち立てた。ブリタニカ7、p93(36)ジョン・ドライデン作、韻文劇『オーレンズィーブ皇帝』 Jhon Dryden(1631-1700),‘Aureng-Zebe’1675,ブリタニカ8、p572(37)カルバリン砲(16,7世紀、蛇形ハンドルのある長砲) culverin (Old French ⇒colubrine)、ブリタニカ2、532a、415c(38)ジョン・ダルリンプル卿(1619~95、スコットランドの法律学者)、著書『大ブリテン及びアイルランドの歴史』 Sir.John Dalrymple ブリタニカ6、p513a(39)セント・ポール寺院再建工事(40)クリストファー・レン卿(1632~1723、建築家)、ロンドン再建計画 Sir.Christopher Wren, ブリタニカ14、p277、23、p812、肖像画あり。(41)ビリングスゲイト魚市場(42)ハンススローン卿(1660~1753、医師、博物学者)。彼の蔵書が大英博物館の基礎となった。 Sir.Hans Sloane ブリタニカ20、p661(43)ロンドン塔の動物園。p478、看守の服装はヘンリー8世以来の伝統。(44)シャドウェル氏(1642~92、劇作家、桂冠詩人) Thomas Shadwell ブリタニカ20、p309、8、p579c-------------------------------------------------------------- 以上のようなノートをもとに実物の写真資料や当時の絵などを探し、イメージをふくらませ、あれこれ構図を考えます。 このノートにはありませんが、あるとき、旧ロンドン警視庁の建物の写真がほしくなりました。有名な建物ですからすぐに手に入ると思ったのですが、意外や意外、いくら探してもないのです。東京・神田の古書店を数日かけて文字どおりシラミ潰しに探しました。こうなったら執念とばかり、歩きに歩いて、なんとイギリスで刊行された建築書のなかにたった一枚収録されているのを探しだしました。まあ、絵を描く時間より、こういう準備に多くの時間を必要とするのです。できあがってしまえば、一枚の表紙絵にすぎないのですが。 きょうは普段お見せしない制作の準備段階をお話しいたしました。