リアリズムについて
午後1時間ほどテレビで映画を観た。非常にめずらしい作品で『松之助の忠臣蔵』という。制作年代はあまりはっきりしていなくて、1910~17年頃、すなわち明治43年から大正6年の間に制作されたらしい。私が所持している日本映画史に関する資料にはそれらしい記述がみつからない。 この作品の1910年という推定年は、この年、日本に初めて映画の撮影所らしきものができたからだ。京都の横田商会の横田永之助が建てた。建てたといっても、二条城の西南櫓下と呼ばれている広場に板敷舞台をつくり、書割りの背景を建てて野天の自然光線で撮影したのだという。 横田永之助は活動写真業者としては日本の草分けの人物で、日露戦争を実写した活動写真を持って全国を巡業して財を成した。映画研究家の故田中純一郎氏によれば、横田はこの財力を駆使して、当時、京都西陣の劇場主だった牧野省三に映画製作を請け負わせた。牧野は岡山地方のいわゆるドサ回りの役者尾上松之助を専属俳優として、1本の上映時間が2,30分のチャンバラ活動写真をたてつづけに製作した。尾上松之助はたちまち日本で最初の映画スターになった。「目玉の松っちゃん」という愛称は、小柄でギョロリとした目を剥いて見得をきるからだった。 『松之助の忠臣蔵』は、そのタイトルがいうとおり「目玉の松っちゃん」こと尾上松之助の主演作品である。忠臣蔵映画は現在まで数知れず制作されているが、本作品が最も古いものらしい。 おもしろいのはまず浪曲師が紹介される。浪曲の語りにのせて映画が進行するのである。この方法は初期活動写真の常法だったらしく、私はほかの作品でも見ている。さらにおもしろいのが出演者の紹介だ。いわゆるタイトル・ロール。なんと「尾上松之助とその一党」とあった。 先に述べたように、板敷舞台に書割りを建てたセットだから、大名たちの御詰之間も松之廊下も同じもの。野天で撮影しているので、邸内の床の間の掛け物が風でめくれたりする。歌舞伎を田舎芝居風にしてそのまま撮影したような具合で、映画的な演出らしきことは影が薄い。演技も、「芸」というにはほど遠い。歌舞伎の「型」を模倣しているにしても、役の「性根」などは微塵も無い。もちろん私は映画初期の作品を現代の視点で批評するつもりはまったくない。いま書いていることは、画面に映っている事実を述べているのだ。 それでも、後の時代劇と見比べて私が感心したのは、匠之守刃傷を赤穂へ報せる早飛脚たちの風俗である。それはじつにリアルだ。私たちが幕末の写真として知っている資料から抜け出したようだ。つまりその風俗は、この映画が撮影された時代からさほど遠くない時代の庶民生活として、わざわざ考証する必要がないほどまだ身近なものだったにちがいない。 このシーンはロケーション撮影されている。ロケーション撮影されたシーンは他にもあるが、早飛脚があまりにもリアルなので映画全体のなかでやや異質な感じがする。 さて、ここで私は考えこんでしまう。 私たちは日頃リアリズムということを口にするけれども、映画や舞台芸術をふくめ総じて美術作品においてリアリズムを見据え、それを定着することは、じつは大変難しいことなのではないか。 『松之助の忠臣蔵』のなかの早飛脚のシークエンスはきわめてリアルであったが、この映画の製作者たちはそれに気がついていないのだ。道の真中で大見得をきったり、討ち入りの山鹿流の陣太鼓の音を吉良邸内の廊下で指折りかぞえて「おっ!あれは!」などという用心棒のかたわらに、すでに赤穂浪士が立っている。そういうばかばかしさをものともせず押し通す。結局は様式にとらわれているのであって、意識はそこを抜け出すことができないのであろう。それはたとえばバスター・キートンの様式に対する意識とも別なような気が私はする。 以前私はこのブログの日記で、パリで展覧会を開催したときに観客にとりかこまれてちょっとしたレクチャーをしたことを書いた。そのきっかけというのが、美術大学の学生がたまたま会場に立ち寄った私をつかまえて、「なぜ日本人のイラストレーターの描く作品は、どれもこれも幻想的なのか?」と聞いてきたことにある。この質問を誰かほかの日本人イラストレーターが聞いていたなら、あるいは「何を言っているんだ!?」と面喰らったかもしれない。というのは、そこに展示してあったのは、日本ではリアリズムと称される作品であったからだ。特にフランス側の主催者が制作したポスターに使用されていたのは、当時日本では克明な写実描写で人気がたかかった某氏の作品で、白足袋をはいた男の片足が大きく描かれ、むき出しの臑に血が流れていた。 1970年代の後半から1980年代前半にかけて、日本のイラストレーションや絵画は、アメリカで流行した「スーパー・リアリズム」もしくは「フォト・リアリズム」と称す画法に影響された。アメリカではいわば物質文明の行き詰まりや息苦しさを感じた芸術家がアンチテーゼもしくは一種のパラドックスとして、とことん「物」に執着してそのそらぞらしい外見を描出してみせたのである。日本ではそうした思想や哲学的側面はともかく、特に商業美術としてのイラストレーションは流行の先端を敏感に先取りする分野だけに、明けても暮れてもスーパー・リアリズムという具合だった。しかもイラストレーションに関して言えば、日本のグラフィック・デザインが世界のリダーシップをとるまでに重要視されたのに併せて、日本発のスーパー・リアリズムが世界へ出ていっていたのであった。パリで開催された私たちの展覧会の背景にもそうした事情があったのだ。 そんな状況下での先の美術大学生の質問であった。 この質問は、そのころすでに幻想画家と言われ始めていた私にとっても、少なからぬ衝撃であった。つまり日本人がリアリズム絵画と思っているものと、フランス人がリアリズムと考えるものの実体に相違があるということだ。日本人のリアリズムをフランス人は幻想的と指摘しているのだ。 私は、これは何としても答えなければならないと思った。画廊の職員が私に椅子を持ってきた。30人ほどの観客が人垣をつくり、およそ90分におよぶレクチャーが始まった。その詳細をここに述べる余裕はないし、25年も前のことだから記憶も薄れている。しかし、このできごとがそれ以後も私の思考に大きな影響をおよぼした。 まず私の考えのなかに、「日本文化史においてヨーロッパ的なリアリズムがあるかないかを検証しなければなるまい。もしかしたら日本文化史はリアリズムを通過していないかもしれない」という命題というか、疑念がうまれた。たとえば日本にレオナルド・ダ・ヴィンチのリアリズムに匹敵するものはあるか? アルブレヒト・デュラーのスケッチに匹敵するものはあるか?等々。 この検証はまだ終わっていない。 『松之助の忠臣蔵』を観て、またぞろその問題を思い出したのである。