消えた私の学校
きのうの日記に、私の母校は小学校も中学校も高校も、校舎は失われてしまったと書いた。私は小学校は父の転勤により3校出ている。卒業した八総鉱山小学校については既に回想記を書いた。八総鉱山が国際貿易自由化のあおりをくって閉山せざるをえなくなったために、小学校もおのずと閉校したのである。この小学校はちょっと特殊な学校で、児童はすべて八総鉱山の会社員の子弟であった。会社が創建し、まもなく町に寄付して町立八総鉱山小学校となった。町立である以上、近在の子供達は誰でも入学できたはずだが、たぶん私の卒業後もずっと社員の子弟だけだったにちがいない。閉校後、山奥にただそれのみぽつりと残された校舎は、町が神奈川県の厚生施設として売却したと聞いた。さらに転売がくりかえされたかして、現在はオートキャンプ場となっているらしいが、風の便りでは修理もされないままただ崩壊をまつのみだとか。---- 中学は会津若松市立第三中学校である。市民は「三中」といっている。校舎は会津若松城(鶴が城)の西の濠から3,400mのところにあった。濠端から西の一帯はその昔、会津藩士の子弟の通った藩校「日新館」の広大な敷地で、三中もその敷地にふくまれていた。私が中学の3年間住んでいたのも同じ敷地、日新館の水練場跡(スイミングプール)だった。三中の講堂兼体育館は「大成館」と称していたが、ここに日新館の孔子廟である大成殿があったことに因んでいる。学校の正門前には、日新館の天文台跡である石垣が残っていた。 この校舎が消えてしまったのである。 私は5,6年前までそのことを知らなかった。私は会津から東京の大学に入り、そのまま東京に居着いてしまった。昨年の8月、三中の恩師の喜寿の祝賀会に出席するため会津若松を訪れたが、42年振りのことだった。5,6年前に知ったというのは、じつはある出版社の若い編集者で私の担当になった方が、高校の後輩だというのだ。話を聞くうちに、かつての女子高校が男女共学制が施行された結果、校名を変更したことを知った。これには驚いてしまった。私が会津にいた当時、市内には6校の高校があった。昔、会津には『童子訓』という儒教からきた教育典範があって、「男女七歳にして席を同じうせず」と、ことのほか男女交際にきびしい環境だった。もしかしたらそういう伝統が現代まで脈々といきつづけていたのであろうか、六つの高校のうち男女共学だったのは若松商業高校だけであった。それはともかく、私は後輩からぽつりぽつりと会津の話をきくうち、なんだか違和感をおぼえ、会津若松市の最近の地図を購入したのである。 街並は大きく変り、町名も変っていた。そして三中があるべきところに、かつて市中央部にあった小学校の名前が記されていた。三中はかつて四中があったところに記されている。私はてっきり誤植だと思った。で、もう一枚別の地図を買った。するとそこにも「誤植」があったのである。 後輩の編集者は高校は同窓であったが、じつは隣の市の出身で、会津若松市の中学校の事情は知らなかった。しかしいくら迂闊な私でも、ことここに至れば、学校が市街地の大改造によって送りだしのように順繰りに別な地に移転させられたことをさとった。 この推測は不幸にも適中していたことを、昨年の訪問によって、まのあたりにした。 だが、私の疑問はここからはじまった。 市内をひとりで見て回っているうちに、三中があった場所に移転した小学校のかつての敷地にやってきた。当然何か新しい施設ができているものと思ったら、あにはからんや、ただの空き地ではないか。数台の車が駐車しているばかりだ。聞いてみると、小学校移転後、ずっと放りっぱなしで、市の職員が駐車場代りに使用しているのだという。 まさにあいた口がふさがらないとはこのことだ。いまや私は市民ではない。ただの通りすがりの旅行者である。そんな人間が物を言う資格はないけれど、なんだか日本の現状を縮図として見てしまったような気持になった。 このブログをたずねてくださるetukoさんは、じつは会津若松の方で、学校はちがうけれどもいわば先輩なのだ。会津に行った当日の午後、私におつきあいしてもらい二人で自転車で市内見物をした。彼女の卒業した高校は例の名称を変更した女子高校である。そしてお子さんたちは、順繰りにおくりだされた小学校と三中を出ている。御主人も同じだそうだ。ということは、etukoさん一家は全員が母校喪失者というわけだ。いや、会津若松市民の相当数が同じ運命をたどったことになる。 「たかが母校の校舎を失っただけではないか」と誰か言うだろうか。そうかもしれない。日々の生活にあくせくしていれば、過ぎ去った思い出などは何ほどのものでもなかろう。 しかし私はいま自らの在ることを考えるとき、つくずく自分の心身に会津がはぐくんだものを感じるのだ。さらでだに私の記憶力のせいなのだが、中学の日々も高校の日々も、その色も声音も顔も服装も、まるでタイムスリップしたように今ここに浮かんでくる。それがどういう意味をもつか知らないが、私はそれらの記憶とともに馥郁とした文化の香りをかいでいるのである。なんと豊かだろう、と思うのだ。 もし、親と子がそのように記憶を共有することができたなら、それこそ何にもかえがたい文化の伝達ではあるまいか。 今日はここまでにして、明日は私の会津高校のことを書こう。創立73年目の12月、すなわち私が最上級の3年生のときに、この校舎は原因不明の火災によって大音響を発して焼失してしまったのである。