歴史小説に学ぶ
東京の天候は今週いっぱい、雨が降ったり止んだりですっきりしない。猫たちはベランダに出たかとみれば、ひとしきり雨に濡れて帰ってきて背や手足を拭かせている。よほどの降りでないかぎり、家のなかで遊ぶより戸外を眺めているほうが面白いらしい。濡れた毛を拭いてやるのも、6匹ともなれば、その忙しいこと。 この猫たちのひ祖母にあたる3代前のグレは、雨の好きな猫だった。降りはじめると縁側に出て、1時間余もじっと雨の動きを見ていた。落下する雨滴は、猫の目にはどのように映っているのだろうと思ったものだ。 雨のあいまをみて、薔薇のための薬剤を買いに外出した。蕾をたくさん付けているのだが、その一つを手にとって見ると、なんと、細かい油虫が発生していた。この油虫の食欲はきわめて旺盛で、新芽や若葉をすっかり食い荒らしてしまう。新芽は特に旨いらしい。枝が丸裸になってしまうのだ。 ついでに母のための本の買い出しをする。今日の午前中までに、いままでの買い置き分はすべて読み終わったのだそうだ。あいかわらずのスピードである。テレビは午後4時から6時まで大相撲を観戦するだけ。就寝前に枕元に読みかけの本を置き、目覚めるとすぐに1,2ページ読むらしい。読了するたびに、「ああ、おもしろかった!」と報告する。 購入した本。 宮尾登美子『松風の家』上下巻 同 『きのね』上下巻 同 『鬼龍院花子の生涯』 同 『菊亭八百膳の人びと』 童門冬二『小説上杉鷹山』上下巻 宮尾氏の作品はほぼ全作を購入したかもしれない。上記の作品は、これまで上下巻が揃うことがなく片割れではしょうがないのでそのままにしてあった。ところが私が宮尾作品(それに杉本苑子氏の作品も)を、あれば一時にすべて買い、棚を空にしてしまうからであろうか、古書店が両氏の本を充実させてくれるようになった。いままで片割れだったものもすべて上下巻を揃えてくれていた。きょうもまた、宮尾氏の棚を空にしてしまった。 購入したものの中で『菊亭八百膳の人々』と『小説上杉鷹山』は、私自身も読んでみたい小説。後日、母から借りようと思う。 菊亭八百膳は東京に実在の江戸時代からの老舗料亭。文化・文政の頃(1804-1828)、江戸には三つの名高い高級料理屋があった。洲崎の「升屋」、深川の「平清」、そして山谷の「八百膳」である。八百膳の料理は懐石料理を基礎として本膳料理の豪華さを加えたもので、大名や豪商や名のある文人を客とした。茶漬一杯を所望しても、その水は遠く玉川から運んだもので、一両二分の勘定だったという。これが今の金額にしてどの程度か私はわからないが、いつの時代かは知らぬが庶民は三両で一年間暮せたと、何かで読んだ記憶がある。テレビ時代劇では、町人たちがヤレ十両だ、五十両だと言っているが、はたしてどんなものか。豪商といわれる町人はともかくも、長屋の八っつあん熊さんがその生涯に小判など手にしたことがあるかどうか----。 宮尾氏の小説は現代の八百膳の物語。 上杉鷹山(1746-1822)は米沢藩主。数代にわたって窮乏にあえぐ藩政を、節倹と行政刷新、産業奨励、荒蕪地開拓などを行なって立て直したことで知られる。が、私の関心は少し別なところにある。 この米沢の上杉家は、4代将軍家綱の時代に第3代藩主綱勝が急逝し、子がなかったことから断絶の危機に直面した。上杉家は上杉謙信以来の名族である。この危機を救ったのが会津藩主保科正之であった。保科正之は2代将軍秀忠の妾腹の子。家光とは異母兄弟になる。非常な聡明で、家光の信頼も篤く、重用されていた。玉川上水の開鑿や明暦の大火後の江戸城再建の建議をしたのはこの人である。正之の長女は急逝した上杉綱勝に嫁いでいたが、子を生さぬまま先に死亡していた。二度目の妻にも子ができなかったのだった。将軍家綱から上杉家の処断を委ねられた保科正之は、上杉家を潰すにしのびなく、後に赤穂浪士打入りの張本人である吉良義央(よしなか)の長男で綱勝の甥にあたる吉良三郎を養子にするという遺言があったことにして(実際はそんなものはなかったのだが)、上杉家を救ったのだった。ただし養子縁組を幕府に届けることを遅滞したことをふとどきとして、米沢藩30万石を15万石に削封した。 保科正之のこの危急時の機転と情状ある法維持は見事というほかはない。が、米沢藩の窮乏はじつはこの時にはじまったのである。藩主が急逝したのは1664年のことであるから、窮乏はおよそ150年余もつづいていたことになる。童門冬二氏はそれがなぜかということも小説として書いているが、それについては私はここに述べない。 米沢藩は保科正之に深く感謝し、その意は200年後に起った戌申戦争のときに会津藩への御返しとなって表れる。つまり藩祖正之の遺命を堅守し幕府から離れなかった会津藩は孤立してしまうのだが、それを陰で支えたのは米沢藩だったのだ。 会津に縁のある私は、おくればせながら米沢藩について少し知っておきたいと思っているのである。 近年私はいわゆる現代小説をほとんど読まなくなってしまった。純文学と称されているものも、大衆小説と称されているものも、どちらも関心がなくなった。一方、昔はまったく見向きもしなかった時代小説を読むようになった。史料・資料を駆使して書くのであろう小説だが、執筆には現代小説よりずっと想像力がいるのではあるまいか。しかも想像力が現代小説とは少し違うように思える。リアリティーの問題といってもよい。たくさん読んでみると、失礼な話だがやはりうまい作家とそうでもない作家がいて、リアリティーを出そうと考えるあまりだらだらと日常的な光景を、同人雑誌の書き手のようなキレの悪い、ヘタな日本語でやられるのは叶わない。つきあっている時間がもったいない。しかしイメージの喚起力がある、批評精神がある、鋭い観察眼で人間の一挙手一投足を描写する力のある作家にであうと、じつに楽しい時間がもてる。小説を読んで、「勉強」なんて言いたくないが、よくよく学ぶこともあるのだ。小説は結局のところホラ話なのだが、読んでいるこちらもそれなりの人生を積んで来ているので、それに見合うホラを吹いてもらわなければツマラナイのである。それが私のいうリアリティーだ。【追記】 江戸時代の貨幣価値がわかる資料が手元にないか調べたところ見つかった。 文化・文政時代の京阪地区の米1石(10斗;約180リットル)の銀による価格 文化2 (1805) 56.6匁 文化7 (1810) 59.2 文化12(1815) 61.5 文政3 (1820) 62.5 文政8 (1825) 76.0 1両=銀50匁=銭4,000文 上の平均価格が63.16匁だから約1.26両。これが米180リットルの値ということは、現在5リットルで2,000円から3,000円として、180リットルだと72,000円から108,000円。 八百膳の茶漬一杯が1.2両ということは、米1石(180リットル)に匹敵する72,000~108,000円だったということになる。