宗左近こと古賀照一先生を悼む
詩人で縄文美術評論家の宗左近氏が去る19日未明に亡くなったという。享年87歳。 私にとっては、詩人・宗左近(そうさこん)というより、大学初年度のフランス語の古賀照一教授である。 クラスにはすでに高校時代からフランス語をやっていた級友もいたが、私はまるで初めてだった。つまり赤ん坊の状態だったのだが、古賀先生の授業は教養課程とはいえ、私には相当上級であった。先生の教え方は理屈より慣れろというふうで、教室に汗だくで駆け込むように入っておいでになると、いきなり「直接法現在、プレザン・デ・ランディカティフ、エートル」と、くぐもったような、それでいて通るような声でおっしゃる。そして、口早に「ジュ・エ、チュ・エ、イレ、ヌ・ゾン、ヴゼ、イルザン」とやる。つまり英語でいうBe動詞の現在型変化。「je e, tu es, il e, nous ons, vous es, ils ent」 私はただただ呆気にとられるだけ。先生の額は、年がら年中、汗がしたたっていた。それをハンカチで拭いながら、つづいてアルフォンス・ドーデの『アルルの女』の読解に移って行く。私は家で逐語訳のように、というより一単語一単語を辞書で調べながら、フランス語を読むというより自分の日本語力で意味の通る文章にしたてて授業にのぞんでいた。----まあ、こんなふうではものになるはずがない。先生の様子を観察するだけで教養課程を終わってしまったのだった。たぶんそのせいで、43年後の現在でも、古賀照一教授の汗だくの風貌はまるで昨日のことのように蘇ってくる。 その古賀照一教授が、詩人・宗左近であることを知ったのは、じつは大学卒業後のことであった。1968年、詩集『炎える母』で歴程賞を受賞したその人が、あの「ジュエ、チュエ、イレ」だった。 この詩集は昭和20年3月10日の東京大空襲で、炎をかぶって燃える母親を見捨てなければならなかった先生の慟哭の歌であり、鎮魂の詩である。日本の現代詩のなかで凄惨な異彩を放つこのような詩を、私は他に峠三吉の原爆詩集以外に知らない。 大学で、まるで駆けるように歩いておられた古賀先生は、あの頃おそらく『炎える母』の執筆のまっさいちゅうだったのではあるまいか。私は歴程賞受賞を報じる新聞記事を見ながらそう思った。いや、思ったというより、気づいたのである。私のようなボンクラ学生を相手に虚しい時間を消費している訳には行かなかったに違いない。授業中に、なんだか不思議な思いで先生の様子を観察していた日々を、私はゆくりなくも思いだしたのだった。 戦争で亡くなった人々を追悼し、鎮魂のための詩を書きつづけられた宗左近こと古賀照一先生の御冥福を祈る。