反抗精神と女性尊重との乖離
NHKBS2の「没後50年溝口健二特集」は、まことに嬉しい企画。私が未見の作品もこの企画によって見ることができた。いま午前2時半を過ぎたところだが、さきほどまでその未見の『噂の女』(1954)を見ていた。 京都・島原遊廓を舞台に、遊廓の女将(田中絹代)とその娘(久我美子)が、母娘で青年医師(大谷友右衛門)を張り合うという話。遊廓という特殊な環境に生きる女たちの哀感や、したたかさ、そして愚劣で腑甲斐無い男たちの姿が見事な厚い演技で活写されている。遊女たちの過酷な「労働」から上がった金で東京の大学を出た一人娘は、恋人に裏切られて自殺未遂をし、生家に帰ってくる。身を売る女たちへ向ける冷たい目をもち、また、家業に対する疚しさを胸にいだきながら。それは、島原という古くからの花街とそのなかで生きる母に対する批判的な新しい意識なのである。 溝口健二は社会の底辺にいきる女たちを描くことをひとつのテーマとしてもっていた映画作家であるが、どうやら溝口自身の経験と密接なかかわりがあるようだ。このことは新藤兼人監督の『ある映画監督の生涯』においても述べられていて、溝口健二の父親は甲斐性がなく家族を養うことができず、姉が芸者に身売りをしたという。そして芸者時代にさる子爵の手がついて妾となり、後に4人の子を生して正妻におさまった。溝口は妾宅に囲われている姉を訪ねて小遣銭をもらっていた(新藤兼人氏に拠る)。花街の女たちを描く溝口の胸のなかには、この姉に対する思いがあったらしいのだが、しかし事はもっと複雑で、溝口は20代は放蕩三昧、27歳のときに別れ話から情婦に背中を剃刀で斬られるという事件がおきている。女は警察から釈放後に行方不明。また、結婚した妻は、その15,6年後に発狂している。妻が発狂した日、溝口は妻を精神病院に入れ、そのまま撮影所にやってきて撮影をつづけた。 映画にかぎらず作品というものは必ずしも作者の実体験と重なるものではないが、溝口映画の女や男たちには、分散されたかたちで、あるいは人間像の追求の深さにおいて、作者自身の体験が反映されていると見るのはあながち間違いではなさそうだ。新藤監督のドキュメンタリー映画のなかでも、溝口健二と長らく一緒に仕事をしていた人達は、たとえば晩年の作品『楊貴妃』などは監督自身がまったく知らない世界であったから失敗するのは分りきっていたというようなことを言っている。この発言は、裏返せば、溝口健二という映画作家の資質がどのあたりにあったかということを指し示しているだろう。 しかし、一筋縄でゆかないのはもちろんだ。 たとえば昨日述べた『雪夫人絵図』は船橋聖一の小説の映画化。この映画には、『噂の女』の久我美子演じる娘のように、古いモラルを批判するような役目を負わされたアプレゲールが登場する。しかし男に従属的な情況に身を置く雪夫人は、彼女の内部にくすぶる情炎にもかかわらず解放されることなく湖水に投身自殺してしまう(そのシーンはないけれども)。この作品は1950年の作品である。つまり戦争が終わって民主主義の世の中になり、古い封建的なモラルは捨て去られ、女性たちもあたらしい生き方をはじめていたはず。しかし溝口は時代思潮とはそぐわないようなこの『雪夫人絵図』を撮った。GHQの厳しい統制下でこのような作品が制作された経緯については、詳しく検証しなければならないであろうが、それはともかくとしてである。アプレゲールの存在が制作認可の要因になったとも考えられる。ちなみに映画等に対するGHQの統制は、1952年4月28日の対日平和条約の発行による占領終了までつづいた。 ところが戦前1936年の『祇園の姉妹』はどうだろう。祇園の芸者姉妹(梅村蓉子、山田五十鈴)は、まったく生き方が違い、姉は金づるにもならない腑甲斐無い男に愛情をもって尽くし、妹は男は金づる以外の何者でもないと割り切っている。手玉にとって捨てた男に復讐され大怪我を負わされるが、病院から担ぎだされながら、「このままで済むと思うな」と男をやっつける宣言をする。この妹もまた、『噂の女』の娘や『雪夫人絵図』のアプレゲールの女と同列にある挑戦的な意識の女である。しかし制作された時代背景を考慮すると、映画作家としての溝口健二のモチヴェーションは、どうやら同質ではなかったようなのだ。 私はこのことを新藤兼人の『小説田中絹代』を読んでいて気がついた。つまり溝口健二という映画作家は、ある種の反抗的精神が旺盛であったらしいということ。民主主義の時代からは遠い抑圧された1936年だったので、『祇園の姉妹』のような底辺に生きながらも活力ある女を描いた。一方、戦後、なにもかにも解放されてしまい抵抗する壁がなくなってしまったので、『雪夫人絵図』のような男に従属して遂には自殺しなければならなかった女を描いた。----このような分析を私はするのだ。 女性の新しい意識とはいっても、溝口健二がそのことを現実的に自らの思想として確固として受容していたかどうかはきわめて怪しい。それは、1940年の『浪花の女』以来溝口映画を深めるために貢献してきた田中絹代との関係が、『噂の女』を最後に、二度と再び戻ることがない亀裂が生じてしまったその原因に象徴されていると思う。田中絹代が映画を監督するという情報が溝口の耳に入ったのである。日本映画史上二人目の女性監督の誕生だった(第1号は坂根田鶴子)。しかし、溝口は、「田中絹代に映画監督などできるはずがない。田中絹代は女優をしていればいいんです」と言ったのである。この言葉には二重の意味があると私は思う。ひとつは名女優田中絹代が脇目もふらずに女優人生をまっとうしてほしいという切なる願いである。もうひとつは、女などに監督としての采配が振れるはずがない、という一種女性蔑視の思想である。それは愛憎半ばする態のものであっただろう。だが、あきらかに溝口健二の意識はいわゆるフェミニズムからは遠かったのだと私は思う。田中絹代が監督として自分と対等の位置にたつことを嫌ったのだろうか。二人は二度と一緒に仕事をすることはなかった。 新藤監督のインタヴューに答えて田中絹代がこういっている。映画のインタヴューは先述の『小説田中絹代』のなかに採録されているのだが、次の田中絹代の言葉は採録されていない。 「溝口さんと私が恋愛関係にあるという言われかたはいたしました。映画のなかではたしかに私たちは夫婦でした。しかし溝口さんが惚れていたのは、映画の主人公であって、田中絹代という個人ではありません」 これは見事な返答である。女優としての最高度のプライドをたもちながら、溝口健二という映画作家の本質を言い当てている、と私は思う。田中絹代というひとりの女性の全人格を愛し、受け入れるなら、彼女が映画を監督するという新しき門出も祝福してしかるべきであっただろう。芸術的に成功しようがしまいが、あるいは興行的に成功しようがしまいが、全人肯定したものにとってそれがいったい何であったろう。しかし溝口はその田中絹代の新しい意識をかたくなに拒絶したのだった。田中絹代が新藤監督に答えた言葉は正しかっただろう。 『祇園の姉妹』『雪夫人絵図』『噂の女』、いや『雪夫人絵図』の次に昨日見た『祇園囃子』を入れ、つづけざまに見てみると、『噂の女』の人物の出入りのスムーズな動きにはほんとうに感心してしまう。まさに円熟の演出といってよいだろう。自然で、たえず流動していて、しかもどのシーンも素晴らしい絵になっている。どんな傍役もすばらしい動きで、これが長回しで撮っているのだから、俳優たちはさぞかし大変だっただろう。だけど仕事としては面白かっただろうなー。堪能、堪能。