ミステリー小説の社会学
長年ミステリー小説の装丁をやってきたので、それなりに数多くのミステリーを内外問わず読んで来た。ミステリー.ファンと自称するのはおこがましい。なぜなら、仕事上で出会うミステリー専門の編集者のその方面の知識たるや、時にこちらが呆気にとられるほど、微に入り細に入るたぐいのもの。とてもファンだなどと言って互角に張り合えるものではない。彼等・彼女等はもちろん少年時代からの読書家ではあるのだが、各大学のミステリー・クラブの中でもとびきり「お宅族」の集まっている有名クラブで一層鍛えられて、その挙句の編集者稼業。あるいは作家になり、評論家になっている。この分野、そういう「お宅族」でなければ勤まらないのかもしれない。 ミステリー小説とひとくちに言うが、これが成立するには、じつはその国の政治的社会体制がおおきく関わっている。まず、かつての共産主義国や社会主義国では発生しなかった。現在では表向きそのような主義をとっている国も、よほど締め付けがゆるやかになり、警察が国民の信頼をかちえているところではミステリー小説も生まれているようだ。つまり、ミステリー小説、その分野でも特に本格ミステリーというのは純粋に遊びの世界、ゲームの世界であるから、まず社会体制が安定し、作者・読者ともに精神的にも経済的にも余裕がなければならない。そしてそのゲームは犯罪追求を目的にしているので、警察が基本的には国民に支持されていなければならない。たとえ悪徳警察官が登場しようとも、警察組織そのものは自浄システムがはたらくものであり、いわば勧善懲悪の実現が約束されていること。かつての共産主義国や社会主義国は、陰謀や国民相互監視を強制されていたため、社会正義を見定めることが不可能にちかく、それでは勧善懲悪のゲームは成立しないのである。 「精神的にも経済的にも余裕がなければならない」と述べたけれど、甲南大学経済学部教授・高橋哲雄氏がその著『ミステリーの社会学』(中公新書、1989年刊)でこんなことを言っている。少し長くなるが引用させていただこう。 「・・・同じミステリー属といっても、犯罪小説や犯罪実録、サスペンス、冒険小説、ホラーなどのジャンルには、多分に近代以前の、たとえば17,8世紀のゴシック・ロマンやピカレスク・ロマン(悪漢小説)の再現の匂いをつよく感じさせられる。本格派ミステリーはこれらの眷族の間に生まれ落ちながら、血を分けた同胞たちとはあきらかに異質の時代精神を養分として育った。ミステリー仲間のように、かたちは変っても歴史のある段階で繰り返し現われるというタイプの文学ではなく、また詩や物語のように、どんな時代、どんな場所、どんな階級の間にも普遍的に存在するメジャー芸術(アート)でもない。近代になってはじめて生まれ、アングロサクソン文化圏に偏在し、作り手(作家)も受け手(読者)も中産階級のなかで賄ってきたという特徴をもつ。いわばすみかをえらぶ、というか、気むずかしい棲息条件をもつ文学ジャンルなのだ。(略)それを楽しむことができるのは、経済的・時間的・精神的に多少なりとゆとりがあり、いくらかは教育ある人たちなのであって、近代社会に属しているすべての人たちがそうした条件をクリアできるわけではない。少なくとも大衆化時代が本格的に到来するまでは。」 なかなか簡にして要をえた分析である。いわゆる本格ミステリーがイギリスで発達したということの説明にもなっているが、日本の場合はこの説明は少し薄めたほうが適切であろう。少なくとも、イギリスのような階級格差が明確ではないので、高橋氏の説明に従えば「大衆化時代」に属するとみればよいだろう。 それにしても上の文章につづく、「ミステリー王国のイギリスでも、一般小説の分野ではロレンスをはじめアラン・シリトー、ジョン・ブレイン、デイヴィッド・ストーリー、アーノルド・ウェスカーと、多くの労働者階級出身の作家を出しているのに、ミステリーの分野では、少なくとも名前の通った労働者作家がまったく生まれていないのは、そうした事情を抜きにしては語れないだろう」という指摘は、私にはずいぶん衝撃的であった。 私は7,8年前にイギリスの犯罪史と裁判制度を調べたことがある。そして、ビクトリア朝後期から20世紀初めにかけての犯罪実録は、ディクスン・カーなみの奇々怪々な事件の連続であることに驚いた。切裂きジャックやクリッペン医師の殺人は日本でもよく知られているとおりだ。 私はいまディクスン・カーの表紙絵を手掛けながら、カーの小説はイギリスの読者にとっては私が感じるよりずっとリアリティーがあったのかも知れないと、ふと思うのである。