初雪便りを聞いて
北国から初雪のたよりがとどき始めている。雪便りに対する想いは、北の人と南の人とでは異なるであろう。私は子供時代は豪雪地帯に住んでいたので、軒先きを埋めるほどの積雪も経験している。雪の縁がうすくなったのは、東京に住むようになってからだ。一晩に5,6cmも積れば、朝の町内は除雪のためにおおわらわとなる。プラスティック製の大団扇のような雪掻きをもちだす家、シャベルの家、竹帚の家、道具はそれぞれだが、雪国の人が見たらオママゴトのような光景だろう。 と、こんなことを思ったのは、天保6年(1835)頃に刊行された鈴木牧之の『北越雪譜』の一節を思い出したからである。この本は、岩波文庫に入っているので、現在でも簡単に入手できる。 鈴木牧之(ぼくし;1770-1842)は、越後国魚沼郡(うおぬまごおり)塩沢(現在の新潟県南魚沼郡塩沢町)の人。越後ちじみを手掛ける商人だった。13歳のとき、隣の六日町に滞在していた江戸の画家狩野梅笑に20日間ほど絵を習っている。稽古に熱中するあまり病気になったほどで、狩野梅笑に出会ったことに大いに感動したらしく、生涯絵筆を離さなかったといわれる。『北越雪譜』の挿画は、牧之自身が描いた下絵を山東京山の息子の京水が描き直したものである。 名著として知られているので、御存知の方も多いであろうが、『北越雪譜』は、雪国の生活をことこまかに述べている。郷土の雪に埋もれた苦難の暮しと人とを、広く知らしめて理解を得たいと願ったのだった。この本が実際に刊行される経緯は、著者鈴木牧之がいわゆるプロフェッショナルな文筆家ではなかったので、山東京伝(京山の兄)や滝沢馬琴を巻き込んだ、大変興味深いものなのだが、それはまたの機会としよう。 さて、初雪便りを聞いて私が思い出した一節は、「初雪」の章である。 暖かい国の人たちは、たまの降雪によろこんで、風流な遊びをしている。芸者を伴って雪見の船を出したり、雪の茶会を催うして賓客を招く。酒場は、雪の日を来客の多い日として、かえって歓迎する。雪にかこつけて大いに遊び、楽しんでいる。・・・このことを雪国の人たちが知ったなら、どんなに羨ましがることか。「我国(越後のこと:山田註)の初雪を以ってこれに比ぶれば、楽しむと苦しむと雲泥のちがい也」と、鈴木牧之は慨嘆するのだ。 牧之の故郷魚沼郡は、現在では「魚沼こしひかり」で名を馳せ、彼が「高山が波濤のように連なる」といっているその中の苗場山は、日本有数のスキー場として知られている。天保の時代には一昼夜に6,7尺(約2mちかく)も積雪した、と牧之は書いている。私が子供時代に住んでいた北海道羽幌町や福島県南会津の山岳地帯では、その昔は一昼夜に1mくらいの積雪は私自身が経験している。ちなみに「豪雪」という言葉は戦後にマスコミによって造られたものらしいが、豪雪地帯では、「玄関の戸を開けると雪のトンネルであった」のだ。しかし、現在の積雪量はどうなのだろう。地球温暖化の影響があるのではあるまいか。 南会津を去ってから42,3年、いや45年にもなるので、現在の積雪量はまったく知らない。3年前のこと、インターネットのさるサイト上の書き込みにひとつの名前をみつけた。それは仮名だったのだが、私は、なんだか南会津の小学校時代の友人のような気がした。で、その仮名の主にメールを送ってみた。返事があった。「御推察のとおりです」と。彼も現在は関東の地方都市に住んでいるとのことだったが、冬になると南会津にスキーに出かけているというのだった。小学生のころからスキーがうまかったけれど、60歳になって、わざわざ昔の懐かしい豪雪地帯にスキーをかついで出かけているという話に、私はこころを動かされたのである。 「むかしより今年にいたるまで此の雪、此の国に降らざる事なし。されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年もまた此の雪の中に在ることかと雪を悲しむは辺郷の寒国に生れたる不幸というべし。雪を観て楽しむ人の繁花の暖地に生まれたる天幸を羨まざらんや。」と鈴木牧之は「初雪」の章を結んでいる。 初雪や水仙の葉の撓むまで 芭蕉