TVドラマ『白虎隊』
夜9時から11時半までテレビ朝日制作のドラマ『白虎隊』を、昨日と今日と二日間にわたって観ていた。普段テレビ・ドラマをまったく見ないのだが、なにしろ私は中学・高校時代を会津若松ですごし、あまつさえ白虎隊の少年たちが学んだ藩校「日新館」の跡地に住んでいたのだから、これは見なければなるまいと思ったのだ。脚本は西舘牧子氏、監督は橋本一氏。 今このときにわざわざ特別番組として「白虎隊」を語ることについて、おそらく西舘氏は苦慮したにちがいない。現代の若者の礼儀知らずを枠組にしての構成は、いささかトンチンカン。会津藩がなぜ後世悲劇といわれるような立場にたたされたかをしっかり描き切っていないので、ドラマが浮ついている。演出もまた演技陣を歴史のなかに押え込むことはできなかったようだ。フワフワ、フワフワとして、観ているこちらの尻が落着かない。首筋が痒くなる。史実はそれなりに細部を押さえているところもあるのだが、脚本家の腕のみせどころのはずのフィクション部分が、まるで御手軽。なんでも会津童子訓をもちだし、しゃべらせれば成立するわけでもなかろう。お題目を物語化しないでドラマもなにもありはすまい。 いっしょに観ていた老母が、「おもしろい?」と私に聞いた。「おもしろくないねー」と応えると、母は、「何を書いてよいのか分らなくなっているみたい」と言ったものだ。まさにそのとおり。 いや、分らなくはない。時代の趨勢のなかで、母親というものは己の心を裏切ってもわが子を戦場に、死地においやるものだということ。その魔性を、魔性といわずに美辞麗句やその他諸々の情況のうちに肯定してしまうのが戦争であり、戦争を引き起こす社会の風だということ。 しかしある意味できわめて現代的なこのテーマを、朱子学やそれに補強された武士道という隷従者の死の美学にまるごと捕らえられていた時代と人間に当てはめようとすると、ドラマツルギーとしては、むしろそのテーマを一身に体現したフィクショナルなキャラクターをひとつ造形し、歴史的人物像と徹底的に対比してみせるべきで、そうでなくてはそれこそフワフワなものになることは最初から目にみえている。 ところがそのような体制批判的な内容を含んだ歴史劇を、日本の脚本家はあまり得手とはしないようだ。 たとえば日本の映画史のなかには数多くの戦争映画があるけれども、おそらく作り手としては心中に反戦厭戦の思想があるのであろうが、できあがってみるとむしろ情緒的で、反戦という、強い意志なくしては語れないものとは距離がある作品になっている。ファシズムとは民衆を情緒的に煽動してゆくものなので、作品を情緒で湿らせることじたい失敗に一歩近づいているのだ。それは思想をキャラクタライズできない、作劇術の弱さのせいではないか、と私は考えている。 『白虎隊』に対する私の不満は、作者の意図は忖度できても、それは作品の出来が良いからではなく、そう読み取ってあげようという観客の親切心だ。作者のためにはあまりよろしからぬ親切心である。 そんなわけでドラマ自体を楽しむことはできなかったが、私個人の思い出をそこ此処に蘇らせてはいた。 日新館の少年たちが水泳の訓練をしている場面があった。その水練場こそ、私が住んでいた所なのだった。私が会津にいた当時、その水練場跡は一部分だけではあったがE家の所有する大きな池として残っていた。私が中学生時代に住んでいたのは父の会社の子弟のための高校生学生寮だったが、その建物がE家と隣り合っていて、池のほとりに建っていた。池には5,60cmもある雷魚や鯉が飼われていた。夜中、寝静まったころに、バシャッと激しい水音をたてて鯉が空中にとびあがることがあった。上級生の誰かが、自室の窓から釣棹をのばしたところ見事に鯉が釣れた。もちろんすぐに池に返しはしたが、Eさんがカンカンに怒ったことは言うまでもない。 池のほとりに形よい楓の大木が茂る築山があった。私は、学校で禁止されていたロケット遊びを、その築山から池をめがけて発射して遊んだ。金属製の鉛筆キャップにセルロイドの砕片を詰め込んだり、やはり金属製の画鋲のうすっぺらな缶の側面四方に小穴を開けてセルロイドを詰めて点火するのである。みごとに飛ぶのだが、危険なことは危険だ。まあ、2,3回ためしてみて止めたけれど、そんな遊びを水練場跡でやっていた。 私はまた、その池の水替えがおこなわれたとき、池の泥のなかから割れた江戸時代の通貨を拾った。「ヤッター!」ってなもんである。もしかしたら白虎隊の少年たちの誰かが落したお金かもしれないではないか。私はそれを丁寧に水洗いしてから接着剤でつなぎ合わせた。それは幼年時代に祖父母からもらった古銭とともに大事に保存され、じつは現在も物置の箱のなかにあるはずだ。 一昨年の7月に40年振りに会津若松を訪ねた。到着したその日の午後、先輩のEさんに同行をお願いして自転車でその水練場跡、すなはち私が住んでいた所に行ってみた。水練場はあとかたもなく埋め立てられ、アパートやその他の建物が建っていた。そこに藩校日新館の水練場があったことを、どうやら会津の人も知る人は少なくなっているらしかった。 藩校日新館が創設されたのは享和3年(1803)、5代藩主松平容頌(かたのぶ)の時代。ときに天明の大飢饉でおおきな痛手を蒙った会津藩は、その再建政策の一環として学問の奨励をはかったのである。この建学精神は、戊辰戦争後に藩が瓦解し、賊軍として悲惨な生活をしいられた会津人が、そこから立ち上がるためには学問によるしかないと、学校設立を実現したことにもつらなっている。現在の会津高校、私の母校である。 日新館は、東西120間(約218.4m)、南北60間(約116.2m)の敷地を有した。そこに孔子を祀る大成殿、学寮、武学寮、天文台、射銃場、水練場などがあった。また後には蘭学所も設けられた。 私の母校の中学校の体育館は大成館と称していたが、それはこの日新館の大成殿にちなんでいた。その市立第三中学校も、日新館の敷地もしくは隣接地にあったためである。 文武両道というけれど、会津藩の教育はまさにそれで、会津の槍術は有名であった。大内流、宝蔵院流、高田流一旨派の各流派が競合して盛んであった。剣術もまた各流派が競合し、一刀流溝口派、直天流、安光流、神道精武流、太子流がおこなわれた。 私の出た会津高校は現在では男女共学であるが、私のころは男子校であった。そしてまさに文武両道というか、体育のなかに剣道と柔道があって、かならずいずれかを選択しなければならなかった。私は小学生のころにほんの少し柔道の経験があったので柔道を選択した。 クラブ活動のなかに剣舞会というのがあったのも、特異なことかもしれない。詩吟にあわせて剣の舞いをするのである。会津高校の剣舞会にはひとつの特権があたえられていた。それは、白虎隊自刃の場である飯盛山の霊前祭における奉納剣舞は、会津高校剣舞会にだけ許されたことだった。 テレビ・ドラマ『白虎隊』にも描かれていたが、戸ノ口が原戦場から雨中の敗退をした少年たちは、洞窟の水路を通って飯盛山に到達する。今どのようになっているか知らないが、私が中学生のころは洞窟の出口が溜め池のようになっていた。おそらく現在でも同じであろう。 夏になると、友人のなかには飯盛山にでかけて、その溜め池で水遊びする者があった。そして水中で古い空薬莢を発見して、得意げに学校に持ってきて見せびらかすのだった。白虎隊の敗走にまつわる薬莢かどうか、当時の私には検証する力もなかったが、とにかくそれが羨ましくてしかたがなかった。そのころから私は歴史的事実に興味をもちはじめていたので、なおのこと「実物」の力に圧倒されたのである。昭和30年代の初めころは、鶴ヶ城の石垣のところどころで、城の屋根瓦の破片を発見することもできたのだった。私はまた上級生に頼んでその父親が所有する城下の古い図面をこっそり借りて、数日がかりで畳半畳ほどもあるのをそっくり写しとったりしたものだ。その図面も資料保存箱のなかに現在でもあるはずだ。 そんなこんなの自分の思い出を、テレビの画面に重ねながら懐かしんでいた。 ところで今や東京のアミューズメント・スポットとなっている御台場が、日新館を設立した会津5代藩主・松平容頌(かたのぶ)が幕府に進言して建設された砲台跡であることを御存知だろうか。砲台跡であることは御存知の方も多いにちがいない。しかし会津藩主の進言によることまでは御存知ないかもしれない。 会津藩は海岸警備をまかされていたのである。初めは安房上総の海岸警備であったが、ついで品川第二砲台に移った。これが御台場である。松平容頌は江川太郎左衛門に発注してヘキサンス砲をつくらせ、この御台場に据えた。 会津藩は早くから洋式砲術の訓練をしていた。にもかかわらず薩長軍の攻勢に壊滅した。その理由は、じつは前述した「会津の槍術」と名をはせたその槍にある、と言ってもよいかもしれない。つまり槍は白兵戦にはむくものの、はじめから銃砲戦で急襲されてはどうにもならなかったわけだ。 そうそう、白虎隊が戸ノ口が原で戦ったその日は、ドラマでも再現されていたが、豪雨であった。同じ日、江戸湾を出港して函館に向った榎本武揚らの軍艦が茨城の沖合いあたりで嵐に遭遇して沈没している。 この両者の遭遇した豪雨について、気象史の分析から同日であったことが解明されたのは、私の記憶に誤りがなければつい近年のことである。東北のある県に在住の旧会津藩士の子孫のお宅の仏壇の下から一通の書き付けが発見された。それはまさに白虎隊の敗走の模様を語るもので、そこに豪雨の記述があったのである。前述したように、落城後、旧会津藩士の多くは賊軍の生き残りとして悲惨な生活を強いられ、戊辰戦争の真実をおおやけに語ることさえ憚らなければならなかった。書き付けが仏壇の下から発見されたというのも、そのことの証明であろう。 というわけで、西舘牧子氏は新証拠にもとづく場面つくりをしていたといえる。それならば、と私はまたぞろ愚痴っぽくなるのだが、白虎隊がなぜ食糧を持たずに戦場におもむかなければならなかったかを、もう1,2シーンつけくわえて説明しておいてほしかった。そうでなければ、今日のドラマではまるで白虎隊が阿呆じゃないですか。西舘氏は、まさか、大平洋戦争時に食糧の現地調達を目論んで兵士たちを戦線に送り込んだバカな日本軍司令部にイメージを重ねあわせたのではあるまい。砲弾の痕もすさまじい会津鶴ヶ城。明治4年(1871)9月22日落城。その後、陸軍省に移管され、明治7年に取り壊された。(私が所蔵する紙焼き写真。昭和20年代に飯盛山で売られていた)