ゾシマの言葉を考えながら
東京はここ三日雨が降ったり止んだりしているが、今日午後5時、赤坂周辺では雪が降り始めているようだ。先日もっとも遅い初雪情報が出たけれど、その記録を更新したということか。 雨に弱い花の鉢を廂のうちに取り入れた。しかし白桃の花は雨のなかで撩乱と咲き誇っている。現在樹高2メートル3,40センチほど。あまり高く伸びないうちに剪定しようと思うが、大きな花冠を頂上の枝先までつけているので、どのように刈り込んだらよいか迷っている。仕事が一段落したなら剪定について少し勉強しなければなるまい。 さて、その仕事だ。新しいアイデアにもとづく描き直しが大分進んでいる。しかし、上半分の描き直しは、おのずと下半分にも影響しないではいない。色調はもちろん、対象の微妙な表情も手直ししなければならなくなってくる。 私の絵画表現は「ムード」ではない。「らしさ」でもない。民族的に、また民俗的に我々がひたっている「文化の正体」を検証し、コスモポリタンとしての新しい文脈を発見したい、それが私の描く目的である。その意味で私にはお手本がない。 しかし時に、世界の思ってもいなかった国から私の作品を理解するというメッセージがとどく。たしか水前寺清子さんが歌っていた、「東京がだめなら、大阪があるさ。大阪がだめなら名古屋があるさ」。私はいつも「此処で」と考えたことがない。世界の60億人の誰かに、と思いながらメッセージを発して来た。その意味では、絵描きとしての私の態度は、自分自身にナルシスティックに固着してそれを個性とし、また芸術理念と考える、近代以降の芸術家の態度とは異なるかもしれない。 「一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少なくなるものだよ」 これはドストエーフスキイの『カラマーゾフの兄弟』におけるゾシマ長老の言葉である。私は17,8才の高校生の頃にこの言葉に出会い、衝撃を受けた。以来、ずっとそのことを考えつづけている。