私をガラスの抽き出しに
ここ二日間、暇をみつけては45年前のバッジをさがしている。5,6年前に一度大整理をした。従来使用してきた大きな茶箱2個の資料のほかに、小学校から大学時代までの創作原稿などが金属製の大型ケースや段ボール箱が20個ほどにぎっしり詰まっている。あるいは絵のモデルとして使用した古いランプやガラス器、貝殻のコレクションやさまざまな素材で作られた球体など、描こうと思ったときにすぐには集まりそうもない品々もひとつひとつ新聞紙にくるんで箱に詰めてある。作品の掲載誌やパンフレットやポスターなどのデザイン作品もある。デッサン帳のたぐいもあれば、メモ帳や創作ノートもある。・・・とにかく、創作家という職業は作品周辺にたくさんの資料が溜まってゆくものだ。 しかし、どうもバッジはそれらの中にはなかった。書籍を詰めてある別の物置のほうかもしれない。となると、これはなかなかシンドイことになりそうだ。 ところで、保存箱のひとつに小・中学校時代の創作原稿があると書いたが、現在残っているのは400字詰原稿用紙に書かれたものが20作品ほど。2篇の戯曲もまじっている。 いま、こういう原稿をみると、自分が子供のころから、ただ一つのことしかやってこなかったのだと、つくづく思う。大学卒業後あたりから表現手段が専一的に「絵」になったに過ぎない。手元に自分の各年代の創作物がとぎれることなく残っていて、自分という人間が何をどのように考えて来たかが、まるで他人事のように客観的に見通せるのである。良しにしろ悪しきにしろ、嘘いつわりのない私というひとりの人間を見通せるのだ。 私は、私自身にとって私自身が謎であることを許さなかった。子供の頃から62歳の現在まで明瞭に意識して私がやってきたただ一つのことは、自分自身で自己をあばくということだけだ。それ意外は何もしてこなかった。サルバドール・ダリに『抽き出しのあるミロのヴィーナス』(1936年)というオブジェ作品がある。私は、自分自身をガラスの抽き出しにしてしまいたいのだ。三島由紀夫じゃないけれど、私自身の無意識なんて信じられないのである。