旧友田中君からのメール
小学校時代の同級生田中君としばらくぶりのメール交換をした。 田中君と私は、福島県の八総鉱山小学校が一緒。数年前、ひょんなことからお互いの消息がわかった。小学校時代の写真を見ると、ふたりはいつも隣同士で写っている。中学校は別々になり、私は会津若松に行った。高校に入学すると、田中君も父の会社の子弟のための学生寮にやってきた(つまり父親同士が会社の同僚だった)。私は一ヶ月ばかり後に学生寮を出てアパート暮らしをはじめたので、じつは田中君とはそれ以来なのだった。42,3年ぶりということになる。しかし、田中君についての私の記憶は鮮明で、映画のように動く映像として甦って来る。声さえ聞こえるのである。 とはいえ、40数年ぶりで送ってくれた写真に小学生の田中君の面影はみつけられなかった。当然といえば当然、私たちは還暦を過ぎたのだから。むしろ私のほうが、一層面変わりしているだろう。たぶん私の今の顔には、少年時代の面影はどこにもないにちがいない。 きょうのメールには、会津若松の学生寮周辺のことが書かれていた。私が忘れてしまっていた隣家の名前を知らされて、あっ、そうだったかと思ったのは、昨年その辺りを訪れたときに、同じ並びの会社の名前が田中君の指摘した名と同じだったことを思い出したからだ。その家のイチジクの樹。たしか塀をめぐらしたその内側にあった。田中君は学生寮の非常階段から、そのイチジクを取ったことがあると書いている。 私が中学2年のときに、同じ中学の上級生のK君を、二階の自室にこっそり招き入れたのがその非常階段だった。管理人室からは見えにくいのだ。非常階段の裏側が、例の藩校日新館の水練場の名残りの池に面していた。寮の敷地との境に竹の粗垣が結い巡らしてあった。 田中君は、左隣との境にそびえていた大銀杏のことも書いていた。その樹は今は失われてないが、私は寮生たちと銀杏の実をぶつけっこして、その汁にカブレてオチンチンが真っ赤に腫れ上がってしまったことがあった。田中君が入寮する前のことだ。二階の窓から手をのばせば、銀杏の実が採れたのである。 それから、銭湯のこと。・・・中学校のグラウンドの前方、若松商業高校のグラウンドの後方、製材所の近くにそれはあった。学生寮に浴室がなかったので、寮生はその銭湯にかよった。 銭湯の前に小さなラーメン屋があった。ときどき寮の夕食がその店から運ばれるラーメンのことがあった。当時、一杯50円。シナチクと鳴門と茹でた菠薐草と焼き海苔がのっかっていた。ラーメンの夕食、おいしかったなー。 寮の食事は、時間になるとベルが鳴った。食堂は廊下より1尺(30cm)ばかり低くい、細長い八畳ほどの部屋で、長いテーブルふたつと4脚の長椅子がそなえてあった。寮生は17,8人が定員。男女が別々のテーブルだった。食堂の入口に一間幅の戸棚があって、その中に、人数分のお菜がならべられていた。テーブルには御飯を入れた御櫃(おひつ)と大きな薬缶にお茶が入っていた。 私の写真アルバムにはある日の食事風景を撮った写真が残っている。残念ながら、田中君が入寮する1年前の写真だ。そこには田中君の隣家のSさんが写っている。寮生としては私のほうが先輩なのだが、学年は1年上級である。きょうのメールで田中君は、やはり同級生だったY君のお姉さんからお汁粉を御馳走になったことを書いていたが、そのY君のお姉さんも寮生として食事の写真に写っている。私もY君のお姉さんに親切にしてもらったものだ。 考えてみれば、田中君と私が時間空間を共有して友として交わっていたのは、わずか4年有余なのだ。しかし、私の記憶には忘れがたく生き生きとしている。子供の「時」というのは、大人のそれとは比べ物にならないほど深く大きいのかもしれない。少なくとも私の感受性は、満開の花のように、友との時間空間に開いていたようだ。