三たび霧に抱かれて
雨や風は映画的なイメージを喚起するかっこうの自然現象で、たちどころに幾つもの作品をあげて名場面を偲ぶことができる。同様に「霧」もまた映画的なのだが、なぜか映画論において論じられることはない。それでも私は、いまこうしてブログを書くためにタイピングしながら、「霧」が登場する映画をいくつか思い出している。 一昨日、イギリスの詩のなかに「霧」をさがし、欧米人にとって「霧」がどんなイメージなのかを考察した。考察したといっても、ブログのスペースの関係でおおいに端折らなければならなかったので、日本人が古来「霧」に対して情緒纏綿としたイメージを付与してきたのに比較すると、欧米人のそれは意外に恬淡としていると見て、それで終わらせてしまった。自分でも言い足りないと思ったので、あらためてもう少し私の考えを述べておこうと思う。 私たち日本人は、「霧のロンドン」とか「イギリスの霧」などと言い、そこには少なからぬロマンチックな思いをこめている。イギリスの霧は、たしかに一種の「名物」であることは間違いなさそうだ。それでは、当のイギリスではどのように考えられてきたのであろう。 私の手元にイギリスの文豪チャールズ・ディッケンズ(1812-70)が子供のために書いた『A CHAILD’S HISTORY OF ENGLAND(子供のためのイングランドの歴史)』がある。子供のためとはいえ、全37章からなる大著である。その第1章「古代イングランドとローマ人」に次のような記述がある。「The whole country covered with forests, and swamps. The greater part of it was very misty and cold. There were no roads, no bridges, no streets, no houses, that you would think deserving of the name.」(全土が森と沼沢地であった。その大部分が深い霧におおわれ、寒かった。道も、橋も、街路も、家もなかった。読者諸君は、それではイングランドの名に値しない、と思うにちがいない。) 「England」とはEngla land, すなわちアングル族(the Angles)の土地という意味。この古代のイングランドの荒寥とした光景の記述を読みながら、私は、黒澤明監督の『蜘蛛巣城』(1957)のオープニング・シーンや、妖婆が三船敏郎演じる武将の不吉な運命を予言する森のなかのシーンを思い出す。深く霧がたちこめる荒れ地に、かつてそこに蜘蛛巣城があったことの板碑。そのただ霧が漂っているだけのシーンはひどく長い。が、長いことにひとつの意味がある。霧の奥深くにあってこれから暴かれねばならない物語は、人間の心の闇だからである。霧を掻き分けるように物語は過去へと遡ってゆく・・・。 言うまでもないが、『蜘蛛巣城』はシェイクスピアの『マクベス』の翻案である。原作においてもこの「霧」はト書にちゃんと指定されている。詳しく述べれば、「霧」をト書に指定してあるのは2箇所で、第1幕第1場の「荒涼たる広野。雷鳴がとどろき、稲妻がひらめく。霧の中に3人の奇怪な妖婆が現われる。」というところと、第3場の「不毛の荒れ地。雷鳴がとどろく。霧の中から3人の妖婆が現われる。」というところ。 専門的なことになるが、じつは第1フォリオ版には第1場の「荒涼たる広野」という記述はない。したがってシェイクスピアの時代の舞台では、どことも知れぬ場所に妖婆は現われたという設定だったらしい。しかし、第3場は、初演以来、霧がたちこめる「不毛の荒れ地」なのである。 黒澤明『蜘蛛巣城』は、この霧の設定もおおむね原作にのっとっているのであるが、私は、あるいは先行の映画作品を参考にしたかもしれないと思っている。それはローレンス・オリヴィエ監督・主演の『ハムレット』(1948年。日本公開1949年)もしくはアルフレッド・ヒッチコック監督の『レベッカ』(1940)である。『レベッカ』が日本で公開されたのは1951年であることを念のため申し添えよう。 シェイクスピアの『ハムレット』では、先王の亡霊が闇のなかに忽然として出現するが、じつは原作にはト書にさえ「霧」の設定はない。が、この戯曲のもっとも優れた映画化作品であるローレンス・オリヴィエ監督・主演の『ハムレット』は、まさに霧で始る。深く立ち込めた霧が渦を巻き、そのなかに陰鬱で禍々しいエルシノア城の望楼が黒々と現われる。原作の第1幕第1場のト書は、それを次のように書いている。「真夜中。凍るような星が空にきらめく。エルシノアのデンマーク王宮のゴシック様式の城は、ほの暗い空に黒く不吉な影を投げている。(以下略)」 ローレンス・オリヴィエは、シェイクスピアのこの設定にさらに「霧」を付け加えたわけだが、映画的にはこの「霧」は、もののみごとにこれから始る物語を象徴するものになった。 『レベッカ』もまた深い霧につつまれたシーンから始る。そこはマンダレーという土地で、主人公のド・ウィンター夫人はかつてその屋敷で不安と死の影にさいなまれて暮らしていたのだ。今は荒れ果てた荘園は霧にうもれ、夫人の回想の声が流れる。霧を掻き分けながら黒々と浮かび上がる屋敷にたどりつくや、画面は一気に時間を遡って明るい南フランスはモンテカルロの海に臨んだ断崖に切り替わる。 『マクベス』のように、『レベッカ』でも「霧」は2度画面に登場する。 2度目は、死んだレベッカのお気に入りのボート小屋をド・ウィンター夫人が調べに行ったときである。 ・・・欧米においては、「霧」は不吉を象徴しているのではあるまいか。あるいは、端的に言って、死を、死の影を。 鬼才ロジャー・コーマン監督の『TOWER OF LONDON(恐怖のロンドン塔)』(1939)は、やはり霧のオープニングだ。霧のなかを突き進むとエドワード4世の城が見えてくる。その城のなかで今まさに王は死の床に横たわり、世継ぎとなるはずの二人の幼い王子の後見について懊悩していた。王が死ぬと、弟のグロスター公リチャードは幼い王子をロンドン塔に幽閉し、自らリチャード3世として王位につく。・・・拷問と殺戮にあけくれる狂気の王を演じたのは名優ヴィンセント・プライス。ロウランド・リーの古典的ミステリー小説の映画化である。 テレンス・フィッシャー監督、クリストファー・リー主演『HORROR OF DRACULA(吸血鬼ドラキュラ)』では、墓場のシーンになると霧がたちこめた。 ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1973)では、悪魔に肉体を占領された12歳の少女の悪魔払いのために、メリン神父が 少女の家にやってくると、家は霧につつまれていた。 ジョン・カーペンター監督『ザ・フォッグ』は題名からして霧そのものだが、北カリフォルニアの海岸の町アントニオ・ベイは町が創始されて100年目になる祝祭にわいていた。しかし町には、100年前のある夜に難破した船の乗組員が、霧のたちこめる時に、復讐のためにやってくるという伝説があった。じつはこの町の6人の創始者こそ、その乗組員を殺害して黄金の積み荷を奪ったのだった。やがて遥か海上で沸き起こった濃霧が、町に押し寄せて来る・・・。 こうして思い出すままに数本の映画を見たが、共通するのは「霧」が死にまつわっていることだ。ここには日本人が霧にいだく恋愛のお膳立てとしてのイメージはまったくない。逆に言えば、日本人は「霧」に対して「死」のイメージはもっていない。まったく持っていないとは言いきれないけれども、また、たしかに邦画においても神秘感や怪しい雰囲気の表現に「霧」が使われることがある。しかしあえて「The herald of death(死の使者)」と断言するほどのイメージは、詩歌をはじめとする文芸作品ならびに映画作品においては皆無と言いえるのではあるまいか。水墨画においても霧はかっこうの題材だが、ここに表現されている霧は憧憬をこめた自然に対する幻想(少なくとも日本の水墨画の場合)である。むろん死の影ではない。 一昨日例示したロバート・ブラウニングとT・S・エリオットの詩にようやく見つけた「霧」だが、ロバート・ブラウニングのほうは明らかに死のイメージとしての霧である。じつはT・S・エリオットのほうも、引用した句だけを見ると、牧歌的な感じがするけれども、詩の主題はやはり「死」なのだ。死の気配としての「霧」なのである。あるいは諸々の悪徳のイメージを隠している「霧」と言ってもよい。 冒頭に紹介したディッケンズの述べる霧につつまれた荒涼としたイングランドを、そこに住む人々は、長い長い時間をかけて豊かな国土へと築き上げてきたのだ。そういう自負が人々の無意識に受け継がれているのではあるまいか。それが文化的な表現としては、「霧」のイメージを「死」や「不安」、概してあまり好ましくない事態と結びつけているかもしれない。アンドレ・ド・トス監督、ヴィンセント・プライス主演『House of Wax(蝋人形の館)』(1953)より。霧のロンドンを死の影を背負った怪紳士が徘徊する・・それにしてもこのカット、素晴らしい映画的なイメージではないか!