エドガー・ポー生誕200年
ことしはエドガー・アラン・ポー生誕200年である。誕生日はすでに過ぎてしまったが1809年6月19日。亡くなったのは1840年10月7日。享年31。 旅役者を両親としてボストンで生まれた。3歳にして孤児となり、ヴァージニア州リッチモンドの商人ジョン・アラン夫妻にひきとられた。ポーのミドルネーム「アラン」は、養父母にちなんでいる。とはいえ、彼は通常「Edgar A. Poe」と署名し、明確に「Allan」と書くことはなかったので、そこにポーの心理的屈折がうかがえるかもしれない。 少年時代のポーは、むら気で移り気だった。水泳をし狩猟をし、あるいはいろいろな競技に出た。15歳のときにジェイムズ河で潮流にさからって6マイル泳ぎ切ったことがある。少年民兵団の中尉だった。しかし彼はしばしば独りで森の中を歩き回ったり、部屋に鍵をかけて閉じこもり詩を書いていた。 養母はポーを自分の腹を痛めた子のようにいつくしんだので、1829年に彼女が亡くなったときポーは数カ月間意気消沈してしまった。後年の詩『ヘレンに』には養母の肖像が創造されている。 養父ジョン・アランはヴァージニア州の最も裕福な男の一人だった。彼はポーを法的な養子としていなかったが、ポー少年は、やがて自分はアラン家の跡取りになるにちがいないと考えていた。けれどもある時をさかいに、自分の立場はアラン一家のなかで非常に脆いものだということに気が付く。 17歳のときヴァージニア大学に入学した。養父はポーにわずかな金しか与えなかったので、ポーはまもなく借金をするようになる。ギャンブルをし、大賭をし、その年のおわりには彼の借金は2,500ドルにふくらんだ。彼は神経を病み、精神不安定になり、酒浸りになる。身体がアルコール摂取をがまんすることができなくなっていた。アルコール中毒の初期症状だった。これがやがて彼の心身をむしばんでゆく。 養父ジョン・アランは怒り、ポーを退学させてしまった。その2,3ヶ月後、ポーは家を出た。 1827年、ポー18歳。ボストンへ行った。ある印刷人を説得して、小さなパンフレットに詩をいくつか掲載して発行する。『Tamerlane and Other Poems』である。タイトル・ページには「あるボストン人による」とだけ印されている。 ・・・この後のエドガー・アラン・ポーの作家として生活費を稼ぐ苦闘についてはよく知られていることだ。要するにアメリカ人作家として、また、幽霊や怪奇譚や恐怖について、そして知的演繹法による近代推理小説の最初の創造者として世界中に知られているポーだが、生前はごくわずかしか知られていず、不幸のうちに世を去ったのだった。 ところで、私はこの記事を、昨日書いたナポレオン・ボナパルトにむすびつけて書きはじめてもよかった。 ナポレオンとエドガー・アラン・ポーだって? まあ、お聞きください。 ナポレオン・ボナパルトは8人兄弟の2番目で、長兄はスペイン国王ジョセフ、すぐ下の弟はリュシアンという。このリュシアン・ボナパルト(1775-1840)の長男ピエール・ボナパルトを祖父とし、その子ロラン・ボナパルトを父として1882年に生まれたのがフロイト派の精神分析家マリー・ボナパルトである(曾祖父リュシアンとエドガー・ポーが同じ1840年に死んでいる。しかしこの際それは無関係)。 マリー・ボナパルトはまた、精神分析家である前に、ギリシャ・デンマーク王太子ゲオルギオスの妃であることは述べておく必要がある。というのは、マリー・ボナパルトは王太子妃としての結婚生活のなかで女性の性について関心を深め、自らの精神的危機感からフロイトに分析をしてもらいたいと願うようになる。 フロイトは最初はこの接触をためらったようだが、マリー・ボナパルトは自らの政治的な地位を利用しながらフロイト学説の紹介につとめ、ついにはパリ精神分析学会を設立するにいたる。のみならず、フロイトがユダヤ人としてナチスの迫害にあったとき、彼等一家をウィーンからロンドへ脱出させたのはマリー・ボナパルトの外交的手腕があったからである。 私は、マリー・ボナパルトといえば学生時代に読んだ『エロス・クロノス・タナトス』を懐かしく思い出すのだが、じつは彼女は、フロイトがレオナルド・ダ・ヴィンチを分析したのに倣って、『エドガー・ポー その生涯と作品の分析的研究』(EDGAR POE Sa vie-Son oeuvre Etudes Analytique, 1958)においてポーを分析しているのである。冒頭でポーの生誕と幼少期の環境について略述したのはこのマリー・ボナパルトの分析を念頭においてのことだったが、彼女はポーの作品を分析的に読解することによって彼の心的構造を明らかにしようとしている。 この著書はたぶんこれまで完全なかたちでは邦訳されていないのではないかと思うが、近々、倉智恒夫・上西哲雄・及川和夫共訳『エドガー・ポーの生涯と作品』として国書刊行会から刊行されるそうだ。 倉智氏がその翻訳の一部(『黄金虫』と『息の喪失』に関する章)を『現代文学』の78,79号に掲載していて、同誌を私は花輪氏から寄贈されて読んだ。刊行がまちどおしい一巻ではある。 しかし、辛口を申せば、フロイト学派の精神分析は、臨床的には私が口をはさむことはできないが、芸術作品の分析となると、いかにも時代遅れの感がいなめない。いや、私が、たぶん年をとったためにそんな分析を必要とせずに文物を味わう術を会得したのだろう。私にとって、芸術的成果について精神分析から得るものは何もない。・・・そういうことです。もっとも倉智氏によると、マリー・ボナパルトはポーを分析することで自分自身を分析したのだという。ポーを当て馬にしたというわけだ。そう、精神分析って、結局、その分析家の精神の分析なんだ。 下の画像は私が所蔵する東京創元社刊の『ポー全集』(全3巻)。装丁は真鍋博。 同書の口絵。ハリー・クラークによる『リジイア』の挿絵復刻。