私は不戦主義者
私は太平洋戦争終結のちょうど3ヶ月前に生まれ、戦後とともに64年を生きてきた。私の名前は両親の平和希求と歴史が改まるようにという切なる願いがこめられている。そのせいでもあるまいが、赤ん坊の私は暗いところが大嫌いで、そのため母は空襲の最中に防空壕に逃げ込むことができなかったという。その母は現在90歳、このごろは頻繁に昔の夢を見るようで、先日も、私をおぶって銀色に輝くグラマン機の来襲を見あげている夢をみたと言っていた。その事実を私は昨年の敗戦記念日に「壕厭う吾を背負いてグラマンの機影かぞえおりあの夏の母」と歌に詠んだ。 私が平和を希求するのは当然のことで、もはや義務である。私の心身は不戦主義者のそれなのだ。 さて、ここ数日間、きょうの64回目の敗戦記念日をめざして《戦争の肖像》を連作してきた。その一応の締めくくりとして、18年前に制作した新人物往来社刊「別冊歴読戦記シリーズ・日本帝国最後の日」のためのフォト・コラージュ30点のなかから、一番最後の作品を掲載して御覧いただく。この30点の作品は、「戦場で撮影した写真のように」という編集者からの依頼に応えて、実際には無い「現場写真」をつくったのである。私は内心で「フォトフェイク;photofake」と言った。しかし、読者、とくに若い読者が真実と誤解しないとも限らないので、最後にネタバラシをするとともに、無惨に死んでいった230万の兵士へのせめてもの追悼とした。山田維史《230万の死せる兵士に捧げる》フォト・コラージュ、1991.5Tadami Yamada "An Offering to 2,300,000 Japanese Soldiers Who Died in The Second World War" Photo collage, May 1991: An illustration for a book. 以下に、昨年「63回目の敗戦記念日に」と題して詠んだ40首を再び掲載します。 壕厭う吾を背負いてグラマンの 機影かぞえおりあの夏の母 乳飲み子の吾をくるみし綿蒲団 機銃掃射の弾貫通せざれよと 乳飲み子の腹満たさんと吾が母は わずかな米を研ぎし水啜る 流れ藻を集めて急ぐ家路なり 空見上げれば戦闘機の行く 初の子の吾に名付けし、改めよ 戦の歴史、平和いのりて 吾五月十四日に生まれ 八月十五日終戦となりし 一九四五年五月十四日生まれ 古きを継がず吾はよろこぶ 涙涸れ老いしとぞ言う、慟哭は 心中に在り、屍踏み来しと 人間は不思議なりしよ、空襲の 劫火美しと思うことありと 後陣に居りて采振らば前線の この世の地獄知らず済むらん 生きし者などて戦を美化するや 二百三十万兵の屍蛆むす 自らが戦場に出ずば兵は ただの数、数の数なり 敵ならぬ我が軍隊に殺されしと 山河に充つ怨嗟の声々 暴力は隠微にして常態たり 軍律厳しとは片腹痛し 国民を欺くための謀略のみ 日本軍部智恵はたらきし 尊大に寿命を終えし人のあり 酸鼻きわまる戦場も知らず かの人の命は重くこの人の 命軽ろしと吾は思わず 戦とは鬼畜になりて殺しあう それより他に言うべきはなし 人生は短きものよ、などて君 いくさを謀り人を殺すや なぜかくも野蛮なりしか日本軍 吾が心性に在るものを虞る 凝視せよ我等心中の殺の快 仮面の陰の悪鬼の相 人殺し、血まみれの手で妻を抱き 生殖する我等の不気味 生みし子をまた戦場に送りだし 人を殺せと言うも親かな 海行かば水漬く屍と歌いしを サド・マゾヒズムと吾は見抜けり 戦争に肯定すべき意義はなし 吾言い放ち頭を掲ぐ 軍政は理想立たざる体制にて 目的化する軍の存続 軍政はつまり社会の未熟なり 人は本来多様、一ならず 軍政下幸福とは何ぞやこの問いに 応えし人を吾は知らず 戦史繙く、愚劣さのほか見出せず 暗澹として日本を憂れう 愚劣さを隠さんとする愚劣さよ 学成らずして戦後を過ぐる 好戦は学問にては治まらぬ 人の心の深き闇なれ 責任の所在あいまいなるをもて 日本文化と言うや君は 古き思想捨てきれずして跳梁 跋扈するかや日本の悪霊 品格を品格なきが言うおかしさよ かくも日本は空虚なりしか まやかしの入れ子なりしか我が社会 二千年かけ狂信はぐくみぬ でたらめを言いて巷間に寵児たり いまは彼の人も土となりにし 死者なれど鞭打つべきは鞭打たん 過ち糾すになんぞ臆する 敵なくば為せぬ人あり自らが 敵なることを知らぬなりけれ この国に生まれ育ちこの国の 空洞を見つ死ぬるか吾は 吾六十三、顧みれば慙愧のみ 世界は依然として戦争に充つ