美しい言葉、それを崩してはいけない
「秋の日は釣瓶落し」というけれど、日の暮れるのが早くなった。午後5時にはそれと分る薄暮がビルの谷間におりている。 朝はどうだろう。東京西部の午前4時はまだ暗い。・・・今朝、午前4時半に目が醒めてトイレに立った。もどって、もう一眠りと床に入って目をつむると、山の下にひろがる街からの音がかすかに聴こえた。遠い電車の走行する音、救急車のサイレン、車の音。目をあけると、わずか数分の間に、窓が白んでいた。と、御近所のどこかからトントントン、トントントンと朝食の準備をする俎板の音がした。いくら御近所とはいえ、そんな音を耳にするのはめずらしいことだった。早いお出かけなのかもしれない。菜を刻んでいるのだろうか、それとも味噌汁の具のワカメを叩いているのだろうか・・・ このところ外出が多く、時間のことを考えて電車を使っている。私は電車のなかでは人々の様子を眺めたり、景色を見たりするほうがおもしろいので、めったに活字を読むことはしない。それでも一昨日は、バッグにポール・ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 序説』を入れ、小一時間ばかり読んでいたが、ちっともおもしろくない。フランス人特有のもってまわった筆法で、じつのところたいしたことも言ってはいない。すくなくとも電車のなかで読むには適さないと観念した。 で、きのうはもっと気楽な読物と思って、パール・バック『北京からの手紙:LETTER FROM PEKING』にした。ただし英語の原書である。といってもパール・バックの英語はいたって平明で、40分ほどの間に23ページ読んだ。 このなかに興味深いことが書いてあった。 主人公の女性はアメリカ人だが、彼女の夫はアメリカと中国とのハーフ。一家は北京で暮らし、夫は大学の学長なのだが、日中戦争がはじまってコミュニストの活動が激しくなり、アメリカ人が中国内に滞在することが危険を感じるようになる。夫は妻子だけをアメリカに帰すことにし、みずからは学長としての務めをまっとうしようと決意した。物語はアメリカに帰った主人公の女性と息子が一日千秋の思いで北京からの夫の手紙を待つという形式になっているのである。 さて、私が関心をもったのは・・・ 17歳になった息子は、母親に呼びかけるとき、「Mother」と言う。けっして「Mama」とか「Mom」とは言わない。幼いときから父親に「Mother」と言うべく躾られてきたのだ。父親は息子にどのように言ったか。 “Mother is a beautiful word,”he said gravely.“You shall not corrupt it.” (「マザーは美しい言葉だ」と彼(父親)は重々しく言った。「君はそれを崩してはいけない」) 私はここに家庭教育の本質、父親としておこなうべきことの本質があると思った。 なぜそんなことを思ったかというと、私は電車に乗っていてあまりまともな日本語の会話が耳に入ってこないことに(こころのなかで)呆然としていたからだ。おとなも子供もありはしない。舌足らずな赤ん坊のような崩れた言葉がとびかっている。しかも驚いたことに、会話していながら会話が成立していない状況も目にする(耳にする)。ひとりひとりが勝手なことを喋りたいだけしゃべっている。一応、相手の言う事に反応してはいるのだが、心にきっちり受けとめているのではなく、いわばお座なりの返答なのだ。その証拠に次に自分が喋りはじめると相手の話題とはまったく違うことを言っている。まことに奇怪な光景である。 この人たちは家庭ではどのような言葉で話しているのだろう。仕事場では? 学校では? 子供達の乱れた言葉遣いに対して、「おとなになって社会に出ればなおる」という人がいるけれども、本当にそんなことを信じているのだろうか。言葉というものはその人の血肉だから、そこに人格も宿っているのであって、悪うございました改心いたしますというようにはなかなか矯正できないのだ。 私は“Mother is a beautiful word. You shall not corrupt it.”と、思いのなかで繰り返した。それから“Father, you shall not corrupt yourself.”と言ってみた。日本の父親たちにである。