恐怖の叫び
母は1週間の高度救命集中治療後、血圧が高めとはいえやや安定し、体内酸素量も良好ということで、8月28日に循環器内科病棟に移った。そして水野宜英主治医の指揮するチームによる治療が始った。 最初に水野先生から告知されたことは、救命集中治療を受けるにあたっての説明と危険度において変りはなかった。しかしできるだけ手術をしないですませるため投薬によって血圧のコントロールをしてゆくとのこと。血圧の最高値は100~110Hgにもってゆくことが理想であるけれども、母の場合、そこまで下げると腎臓機能に障害がでてくる恐れがあり、120~130Hgをめざす。安静を保つことが大切で、感情の振幅は好ましくない、と。入院期間はおよそ6週間は必要であるという。 私と弟は相談のうえ、母の感情を抑えるため東京に在住しない末弟夫婦にも、また、最も身近な親戚にも知らせないことにした。病院側から、見舞いは、できるなら私と弟だけにしてくれと暗に告げられたことでもあった。 このことは私と弟とでひとつの確信となった。というのは、一般病棟に移って2日目のこと、病室を訪ねると母のベッドがなかった。ナース・ステーションに尋ねると、前の晩に叫び声をあげたのでナース・ステーション内の処置室という常時監視できる部屋に移したというのである。処置室は危急の場合に応急処置ができるよう無影灯などが設備されている。叫ぶことによって、血圧が急激に変動し、薄皮一枚で保っている解離状態が増悪、もしくは完全に裂けてしまう恐れもあったからだ。 この叫びには心理的原因があって、母は自分に起ったことも知らずに、私にその晩に見た恐ろしい夢の話をしたのである。・・・牢獄のような暗い部屋に閉じ込められた母は、ようやく脱出に成功して中野で地下鉄に乗って逃走した。しかし〈此処〉でまたもや掴まり、恐怖の叫びをあげた・・・と。 母がこの恐夢を見たのは、意識がはっきりしないまま病院に運ばれてつぎつぎと場所を移動し、ついに窓ひとつないノッペラボーの部屋でさまざまな機械につながれて、自分がどこにいるか分らなくなっていたこと。さらに私には思い当たるふしがあった。母は最初、差額ベッドの個室に入ったのだが、このベッド代金は1日8,000円だった。6週間以上もこの部屋にいることは、治療費用(いくら必要かまったく分らなかったので)のことも考えると経済的に負担が大き過ぎた。病院費用というのは退院時に即金で支払わなければならないからだ。で、さいわい4人用の大部屋が空いたというので移ったのである。すぐに一人が退院、もしくは他の病棟に移り、他の二人も2,3日のうちに退院とのことだった。 で、夢を見た日の夕方のこと。退院予定の二人が仕切られたカーテン越しに大声で退院の喜びを話しはじめた。ちょうど私がいるときで、退院後の介護してもらうための施設等々の情報交換もまじえての話。絶対安静の母の存在などおかまいなしに、なんと同じことを何度も何度も繰替えしながら1時間半もつづいたのだ。母は耳をとじることもできず、疲労し、挙句の果てが、自分だけが取り残されてしまうのだという孤独の不安におちいった。・・・このことが、おそらく恐ろしい夢を見るひきがねになったのではないか。私はそう推測した。 この夢がまた、母の別な状況をつくりだしてしまった。死にまつわる夢が二六時中、母の頭を占領するようになったのだ。しかも夢が現実を凌駕していた。つまり、あまりの不安のために、それは夢なのだと現実にもどって訂正しがたくなっていったのである。それでなくとも、母は目が不自由になっていたし、壁に囲まれて寝たきり状態では、情報は耳からだけである。見えないのだから、物音が何であるかを事実にもとづいて判断することができずいわば空想によって判断するのである。つまり錯誤の認識なのだが、それを錯誤として記憶から消去してしまうには脳の機能がおとろえている。しかも物音は、すべてが負のイメージに転換してしまうのである。 たいへんなことになった、と私は思った。(以下、次回につづく)