羊の歌
俳句の「季寄せ」には4月の季語として「羊の毛剪る」とでている。羊は春に毛を刈るからである。 それで思い出したことがある。 60年も前、戦争がおわって4,5年しかたっていなかったころ、私の一家は北海道の羽幌町に住んでいた。戦地から帰った父の勤めと一家をとりまく事情が、まだそれほど安定していなかった時期。静岡県の土肥で私が誕生して間もなく、父は勤め先を変えて、羽幌町に移った。その町で、どういう事情かは私は詳らかにしないが、我家では羊を牧場に飼っていた。 昔、母から聞いたところによると、牧畜生産者が、我家で羊を買って、それを預からせてくれないかと頼んできたらしい。父は承知して、以来、郊外の牧場で我家の羊は飼われることになった。私は4,5歳で、父の休日などに牧場につれていってもらい、羊に塩を舐めさせたことなどを記憶している。 ところが、羽幌町での暮しが2,3年も経ったとき、父は以前の会社にもどることになって、一家は羽幌町を去ることになった。 ・・・さて、そこから、私の羊にまつわる記憶はなにもなくなるのだが、いったいあの羊はどうしてしまったのか。どうやら牧畜家にそのまま無償でゆずったらしかった。・・・数年後のこと、父にすばらしい冬外套(オーバーコート)が送られてきた。紺色に若い緑がまじったような品のいい染色で、仕立も申し分なかった。あの畜産家からの品物だった。我家の羊から刈り取った毛を、繊維にし、染色し、織り上げ、そうして一着の外套を仕立てあげたのだという。 父はその外套を、長い年月着ていた。・・・そんなことを、「羊の毛剪る」という季語から思い出したのである。 亡き父の古外套や羊毛剪る 青穹 外套は牧の若くさ空のあお てのひらに羊の息や春毛刈る