ヴァレンタイン・デーにチョコレートの思い出
先日積った雪がすっかり溶け、今日の昼間は良い天気だった。しかし、それも束の間、夕方から再び降出した雪は、午後9時、4時間ほどで10cmほどに積った。 ヴァレンタイ・デーだそうだ。「だそうだ」などと伝聞調になるのは、新しい風俗には関心がないからだが、若い人に言わせると「年のせい」ということだろう。「まあ、いいけどさ」とTVCM調で応えておこう。 それでも、チョコレートは大好きだから(チョコレート・ケーキは嫌いだが)、きょうのおやつはチョコレート。 食べながら思い出した。 チョコレートが日本人に一般的になったのは、戦後、進駐軍(アメリカの占領軍をこう称した)と共に入って来たことによる、といわれている【後註1】。子供たちは進駐軍のジープのあとを追いかけて、ガムやチョコレートをねだる光景も見受けられた。「ギブ・ミー・チョコレート」とか、「ガムチーン」と叫ぶのだ。なぜ、ガムのあとにチーンというのか分らないが、ともかく米兵に向って「ガムチーン」と言った。 私は4,5才、ガムやチョコレートをもらったことはないが、赤い小さな冊子を何冊ももらった。数年前、そのことをこのブログに書いて、あれはどんな本だったのだろうと疑問を呈したところ、アメリカ文学の専門教授である釈迦楽さんから、アメリカ兵が戦時に配布されて所持していた小説本のシリーズに違いなかろうと解答が寄せられた。幼児の私は読めないままに、10册以上も所持していたのだが、いつのまにか1册もなくなってしまった。もしかしたら、それが私自身の物として所持した最初の本、という気がしないでもない。 ところで、チョコレートだが、昭和26,7年頃には国産のチョコレートが発売されるようになった【後註2】。その頃、私たち一家は長野県川上村に住んでいたのだが、私と弟のおやつは、たいてい、「変り玉」と言っていた、舐めているうちに色が次々に変ってゆくマーブル・キャンデーと、チューブに入ったチョコレートだった。 チューブに入ったチョコレート・・・御存知だろうか? どこの製菓会社の製品かは不明だ。 現在のラミネート・チューブになる前の練り歯磨は、金属のチューブに入っていたけれど、あれと同じである。板チョコは見たことがなかった。あったのだろうか? 明治製菓や森永製菓にたずねれば当時の日本のチョコレート事情がわかるだろうが・・・【後註3】 ともかくそのチューブ入りのチョコレートのおいしかったこと。いまのように何でもある時代ではなかったからねー。いまでも、忘れません。 もうひとつのほうの変り玉。卸し用の大きなケースごと買って、そこから母が与えてくれた。ある日、母の留守のときにそのケースが届き、ちょうど友達がふたり遊びにきていたのだが、私はその大きなケースを箪笥の上にあげ、抽出を階段にして自分ものぼり、いろとりどりの飴玉を豆撒きのようにばらまいて友達に拾わせたのだ。ケースはからっぽになり、友達はポケットにギッチリ入れても詰めきらないほどの飴玉を、おおよろこびですべて持ち帰った。私は、赤や緑や黄色や白の小さなまんまるの玉が部屋中に敷きつめられるのを見て、大満足だった。・・・帰宅した母が、怒るのも忘れてあきれていた。 私の青春時代にはヴァレンタイン・デーなどなかったので、チョコレートと恋愛は全然結びつかない。幼年時代の懐かしい思い出のなかにチョコレートはあるのである。【註1、2、3】 日本で最初にチョコレートを製造販売したのは、明治11年(1878)、東京の米津風月堂。「貯古齢糖」と、表記したのだそうだ。その後、大正7年(1918)に森永製菓がミルクチョコレートを、大正15年(1926)に明治製菓がやはりミルクチョコレートを製造販売した。いずれも板チョコである。 第二次世界大戦が始り、1940年以降はカカオの輸入ができなくなる。明治製菓がミルクチョコレートの製造を再開したのは昭和26年(1951)年である。