ゴッホの自画像、じつは弟テオの肖像
ファン・ゴッホの油彩による自画像は全部で38点が現存する。ところが、今日23日、asahi.comが10時8分に伝えたところによれば、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館所蔵の1点《麦わら帽子の自画像》(1887年作)が、じつは弟テオの肖像であることが判明した。同美術館の研究員が、耳のかたちから同じ時期のテオの肖像写真と比較して同定した。 これまでゴッホの唯一の理解者であり経済的な支援者であった弟テオを描いた作品は、1点も存在しないとされてきただけに、ゴッホ研究にあらたな視点が必要になりそうだ。このたびテオの肖像とわかった作品は、ボール紙に油彩で描かれた、19×14センチの小さな絵である。ゴッホの全作品総目録、ド・ラ・ファイユ目録作品番号No.294, ヤン・フルスカー目録No.1209, テスチェン作品番号No.213として記録されている。 テオの肖像という決め手になったのが「耳のかたち」というのは面白い。これは犯罪捜査などにも用いられてきた鑑識方法で、耳のかたちというのは指紋と同様に、個性をあらわしてい、のみならず年齢によって変化しないのである。写真がもっとも明確にあらわれるのは勿論だが、肖像画でも、観察力にすぐれ、他者としての人物のリアリティーに関心をいだく画家であれば、描き得るだろう。 もっと突っ込んだことを言えば、固有文化における「リアリズム」の問題に行き着く。たとえば、わが写楽を見てみよう。初期の大首絵が、誇張によって対象たる人物にするどく迫っていると言われているが、こと「耳」に関しては、まったくリアリティーを欠いているのである。写楽の描き癖といおうか、簡単な5本の線ですべての人物を描いており、そこには個性はまったくない。 日本の他の例を示す余裕も議論を展開する余裕もないが、日本のリアリズムというのはヨーロッパのリアリズムとは、じつは大いに異なるのである。 お笑い芸人の出川哲郎さんに、「リアルなことを言えば」とか「リアルな話」とか口走るギャグがある。ギャグならまだしも、「現実」という「幻想」が日本には蔓延しているについては、私はとても笑ってはいられない。 ・・・そんなことを考えるきっかけとなったゴッホ美術館からの耳寄りな話題であった。ゴッホの自画像は全部で37点になったけれど。