春は近くに
立春。今日も東京はおだやかな温かい日。天気予報では午後には雨とのことだったが、その気配はない。 道端にタンポポが咲いていた。春隣である。 いままでまったく気がつかなかったのだが、我が家の小庭の柚の木に一個だけ実が生っていた。直径7cmほど。常緑の葉叢のなかに、電灯がぶらさがって灯るように黄色く輝いている。 今日まで。8,9年間、図体ばかりでかくなって、実のほうは一向に生らずに、「なんだろうね、この木は。ウドの大木という言葉はあるけれど、お前さんはユズの大木、木偶(でく)のぼうだねー」と、内心につぶやきながら、背丈だけは毎年グイグイのびて、去年の夏も一昨年の夏もそのトゲだらけの伸び放題の枝を伐ったのだった。 それにしても、ほとんど毎日のように目に入る木なのに、なぜ実が生っていることに気がつかなかったのだろう。気がついてみれば、否応無く目に入ってくるほどまさに目の前に大きくぶらさがっている。 私は庭から窓ガラスを叩き、「なに? どうしたの?」と顔を見せた家人に、「ユズが生っているんだよ」と言った。 「それじゃあ、やっぱりユズだったんですね」 「そう、やっぱりユズだんたんだよ」と、私はその実を指差した。近所の家のユズが毎年たわわに実るのを見て来た。地団駄踏む想いとまでは言わないが、なぜ我が家の木はウンともスンとも言わないか、不思議だったのだ。鳴かぬなら殺してしまえホトトギスとばかり、いっそ伐り倒してしまおうかと家人にも言っていたのだ。 桃栗三年柿八年・・・ユズは8,9年かかるのだろうか・・・ 少年はゴムまりのように 蜜柑を空に投げ上げながら 街の十字路を駆けて行った 見ている私は驚かないではいられなかった 金色に輝くまるい実の 中には命の泉があるようだった 冬に病む光の中で 泉はやさしく唇を 濡らすようだった これは私が17歳のときに書いた「蜜柑」という詩である。私はたった1個のユズを見上げながら、ふいにこの昔の自作詩を思い出したのだった。