樹木の智慧
ここ数日間の小雨模様が、一時の晴れ間となり(明日はまた雨の予想)、残暑がぶりかえしたが、しかし気配はもう完全に秋だ。 いまごろから我家の小庭は、例年だと柿の青い実がたわわに目につくのだが、どうしたわけか今年はほとんど目立たない。昨年はあきれるほどなって、原発事故以後は柿酢の仕込みをやめて全部捨て来たので、毎日のように落柿のしまつにこまった。そして、あまりにも枝が広く繁ったので、思い切ってバサリバサリと伐った。 ---柿はそれに怒ったか、今年は実をつけない。 たぶん、実をつけずに、精力を蓄えているのだろう。そしてまた、枝を剪定すると親木の周囲につぎつぎと「ひこばえ」が芽を出すことに気づいてきた。根をたどってゆくと、親木の根が張って、そこから芽吹き、若木になっている。庭が柿の木だらけになっては困るので、若木は切り取っているが、思えば柿にとっては哀れなこと。私は心が痛まないでもないのだが。 パール・バックが次のようなことを書いている。私の好きな一節だ。 No one knows why the maple sap runs upwards in spring. This force is not explained, but it is powerful enough to move engines if it were harnessed. It is cellular force, not directly propelled from the earth through the roots, for if a maple is cut, the sap still runs upward through the trunk. There is no heart in the trees as in the human body, no pump visible and beating, but a pure force, elemental and almost spiritual in its source. It is life force expressed through matter.【訳;山田維史】 カエデの樹液がなぜ春になると上がってくるか分かっていない。この力は解明されていないけれども、もし利用できるとしたら、エンジンを動かすに十分なほど強力なものだ。それは細胞の力であって、根を通して地から直接促されたものではなく、たとえカエデが伐られたとしても、樹液は已然として樹幹を通して上がってくるのである。樹木には人間の身体のような心臓はないし、目に見えるポンプも鼓動もないが、その根源に、自然のそしてほとんど霊的な、純粋な力が存在する。それは物質を通して表現された生命力である。