進駐軍専用列車に乗ったことについて
制作をしながらふと思い出したことがある。思い出したというより、今になって初めて気がついたと言った方が正しい。 先日、民生委員として小学校を訪問し、校長先生と副校長先生と一緒に給食の七夕メニューをご相伴させていただいた。そのとき食事をしながら、何の話の接ぎ穂だったかわすれたが、私が学齢前の昭和26年頃のこと、家族旅行をした際、まちがって進駐軍専用列車に乗ってしまった話をした。 今、これを書くにあたってウィキペディアで調べてみると、正式には連合軍専用列車というそうで、昭和20年の敗戦後から昭和29年ごろまで、日本へ進駐してきた占領軍の国内移動の便宜のために、国鉄・私鉄の各線において、そのときに残っていた良い設備の車輌が供されていた。ウィキペディアをそのまま引用すると、日本人の乗る列車がいつも荒廃状態・殺人的混雑で走っていた中、『「戦勝国」・「軍人」専用ということで優先的に良い設備・車両が投入され、大体においては空席がある状態で走っていたので、日本国民からは複雑な目で見られていたといわれている。』 おそらくそのとおりだったのであろう。私は子どもだったのでそのような「日本人の複雑な目」を意識はしなかった。実は、絵筆を走らせながら気がついたことというのは、その日本人の目が向けられた相手側(それは主にアメリカ人であったと思われるが)についてである。 私たちは間違って乗車したにもかかわらず、空席に座っていた。私にとって初めて間近に見る夫人達をともなったアメリカ人だった。幸福そうではあったが、陽気にはしゃぐでもなく、マナーがそなわった方々だった。私がことさら目にとめたのは婦人たちのスカートから出た「素足」だった。いや、そこが私の疑問だった点で、素足のはずのふくらはぎに褐色の「スジ」がずっとスカートの奥までのびていたのだ。私は母の耳に口寄せて、「あのスジはなに?」と聞いた。母は、「素足に描いているのじゃないかしら------」と言った。 母も知らなかったのだ。それがナイロン製のシームストッキングというものであることを。母たち日本婦人が知っていたの綿のストッキングであった。肌が透けるナイロン製は、まだ日本には存在しなかったのだ。 のちになって母と私はそのときのことを笑い話にしたものだった。 さて、その話は校長先生にした。肝腎の私の気付きを書こう。 実は私たち家族は間違って乗車してしまった連合軍専用列車内で、ただの一度も奇異な目を向けられなかったのである。ただの一度もイヤな思いをさせられなかったのだ。先に私が子どもの目にも「マナーがそなわった方々」と述べたのは、そのゆえだ。私たちは目的地までアメリカ人たちとごく快適な列車旅行をした。------そのことに、たったいま、65,6年も経ってふいに気がついたのである。そしてこのことは書いておくにたる事実ではないかと。