阪神・淡路大震災から22年
阪神・淡路大震災から22年目。お亡くなりになった6千数百人を悼みます。 私の住んでいる地域では、ここ2,3年来、大災害に向合う本格的な取組みがはじまった。今週末にも、自治会防災担当者会議が開かれることになっており、私も民生委員として招かれている。災害時に支援を要請している高齢者・障害者をどのように介助するか、救助するかについて話し合われることになろう。 というのも、この地域は必ずしも傾斜度がゆるやかではない山の斜面にひろがる住宅地で、車椅子で搬出することは不可能。担架によるのもかなりの困難が予想され、予行演習が必要と思われる。のみならず、山の下のただ一本の本通りが交通規制される可能性があり、そうなると逃げ場を確保することも難しくなる。楽観視できない場所なのである。 東日本大震災の時に、母がまだ存命で寝たきり状態の在宅医療をしていた。激しい揺れに、とても家から運び出せないと思い、不安がる母に私は「一人にしないよ、心配しないで。一緒にいるからね」と言って、覆いかぶさるようにしたものだった。 酸素発生装置の五つある安全確認ランプの一つが断線するなどしたが、関係医療機関が即座に連絡をくれ、予備の酸素ボンベ数本とか、点滴栄養剤の在庫を掻き集めてとどけてくれて、母の命は救われた。じつは酸素ボンベは東北の被災地に優先的にまわされ、母にとどけられたのはわずか2本だった。また完全栄養液剤の製缶工場が被災して製造が不可能になり、母の場合はそれ無しには生命をつなぐことが難しかったのだ。契約していた薬局が八方手をつくして一日3缶、約1ヶ月分を掻き集めてとどけてくれた。その後は、たしか海外の製缶工場からの輸入にたよることになった。 とにかく、あのときは本当に主治医や関係医療事業者の素早い尽力に感謝したのだった。