日記文学渉猟
一昨日のブログで小林一茶の『父の終焉日記』を読んだと書いた。この日記の現代語訳があるかどうか知らない。私が所蔵している信濃毎日新聞社刊の一茶全集(全7巻・別巻1)は、一茶研究の最も重視されている書物だが、脱語誤記に校訂併記するほかはすべて一茶が書いたままの原文である。 日記と称されていないけれど、一茶にはほかにも『西国紀行』などは日付が入っていて、日記と言えば言えるものだ。その『西国紀行』のなかで、一茶が俳聖と言っている松尾芭蕉の五編の紀行文は、いずれも明確な日付は記されていない。唯一『嵯峨日記』が、わずか14日ほどのものながら、日付が明記してある。 日本古典文学には多くの日記が存在する。それらは別行を立てて日付が記されているわけではない。書かれている記事中にそれとわかる記載がある場合がほとんどだ。「土佐日記」にしろ、「かげろふ日記」「和泉式部日記」「更級日記」、あるいは定家卿の「明月記」にしろ、「満済准后(まんさいじゅごう)日記」然りである。 こうして書き出したのは、私自身のこのブログも公開を前提に書いているけれども、まあ、日記だ。いや、そんなことなどどうでもよい。 現代文学の日記はどうだろう。 小説家が、たいていは公開を前提にするか、後々人に読まれるであろう事を予測して書いている。たとえば、永井荷風の『断腸亭日乗』がある。三島由紀夫の『アポロの杯』は世界一周旅行記で5部から成るが、朝日新聞に連載された。『裸体と衣装』、『外遊日記』と、いずれも読者向けの日記である。 しかし文学者の日記がみな読者を想定しているかというと、そうとは限らない。石川啄木のローマ字日記は、いわば秘密日記ともいうべきものだ。 卓抜なエッセイストでもあった映画監督・伊丹十三は、やはり本として出版することを前提にして4冊の日記を書いている。『ヨーロッパ退屈日記』であり、自作映画の制作過程を綴った『「お葬式」日記』、『「マルサの女」日記』、『「大病人」日記』である。 私は上記のほかにもかなりの「日記」を所蔵しているが、それへの関心は、いわば正史と稗史との関係を考察するに似ている。 三島由紀夫のそれのように、書名が「日記」とされてないものもあるが、ちょっと私の書棚を見てみよう。 『ゴンクウルの日記・全3巻』(1947年、鎌倉書房)、 『ドラクロワの日記』(1969年、二見書房)、 『日記・花粉』ノヴァーリス(1970、現代思潮社) 『ジャン・コクトー 占領下日記・全3巻』(1993年、筑摩書房)、 『ポルトガル日記 1941-1945』ミルチャ・エリアーデ (2014年、作品社)、 『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(1991年、文藝春秋)、 『幕末欧州見聞録・尾蠅欧行漫録/市川清流著・楠家重歳編訳』(1992年、新人物往来社)、 『幕末出島未公開文書 ー ドンケル・クルチウス覚え書/フォス美弥子編譯』(1992年、新人物往来社)、 『フランス艦長の見た堺事件」プティ・トゥアール著・森本英夫訳』(1993年、新人物往来社)、 『新選組戦場日記』永倉新八著・木村幸比古編(1998、PHP研究所) 『夢日記/正木ひろし』(1974年、大陸書房)-------- きりがないのでこのへんで止めよう。 『ゴンクウルの日記』は、19世紀のフランス文学界のみならず社交界の様子が鋭い洞察で活写されていて比類無い。 ジャン・コクトーの日記も然り。占領下のパリで創作演劇の活動にいそしみ、ナチスに占領されていることなど歯牙にもかけない芸術家の強い意志が見いだせる。そこに当時の日本の状況を重ね合わせた時、日本の現政権が極右勢力と結託して戦争ができる道を開こうとしているが、そうなったときに日本国民をどんなに惨めな状況に置く事になるか浮かび上がってくる。 ほかに、神坂次郎著『元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世』(1984年、中央公論社)は、尾張藩家臣・朝日文左衛門という下級武士が残した日記『鸚鵡籠中記』の紹介を兼ねた抄訳。 『森鴎外歌日記』は、軍医として戦陣にあって詠んだ歌・俳句を一本に編纂した稀稿本。 『乃木希典日記』も明治の将軍の日常行動を知るうえで貴重。この日記を詳細に分析し、彼の特異な性癖を読み取ったとする市井の研究者がいる。私はその研究論文を読んでいる。しかし、それについてはここに触れない。 純然たる日記ではないが、早坂暁著『華日記 ー 昭和生け花戦国史』(1989年、新潮社)は、事実にもとづいた日付ある日記体ドキュメンタリー風な「小説」である。登場人物を変名にしてあるからだ。 上記の『夢日記』の著者正木ひろしは、えん罪事件再審等で活躍した弁護士である。戦時中は個人の夢まで監視され、それを記した日記は思想犯・不敬罪の証拠とされた。正木氏の夢日記5千ページは、その時代を生き延びて残されたものも多いそうで、著者78歳のときにその一部を公刊したのが本書である。 そうそう、私の長年の知己、元國學院大学教授で小説家の花輪莞爾氏に、伝統ある「國學院雑誌」に不定期連載した『夢日記』がある。このなかで、ある日の夢に、私の絵が現れて大暴れした、と書かれていた。花輪夫妻は私の絵を5点購入、所蔵している。 下の画像は、私の高校・大学時代の日記の一部である。 小学1年生から書いていた絵日記は、札幌の両親の家に保存していたのだが、東京の私と同居することになった両親は、私の住まいが狭いと考えて独断で全部捨ててしまった。これを聞かされた私は茫然自失の大ショック。とりかえしがつかないので、私は一切口には出さなかったが------。 そして、年をとってから始めた「血圧管理帳」。毎日、朝夕2回の血圧測定記録および一週間毎の体重記録である。数値とそれを折れ線グラフにして、一目で変動がわかるように書いている。 そのほか、同時に書き始めた「一日の食事」をコンピューター・ファイルとして記録している。朝昼夕および間食の、要するに口に入れた飲食物すべてを詳細に記している。料理の食材、調味料・スパイス、そしてカロリーがわかるものはそれも書く。これによって栄養バランスはもちろん、塩分・糖質がだいたい把握でき、健康と体重65kgを維持する目安となっている。 また、4年余におよぶ大学ノート13冊の母の『看護日記』がある。ただしこれは毎日の時間毎のスケジュールにもとづいて、栄養薬液点滴を1時間かけて入れたとか、血圧や脈拍や体温の数値、尿量数値や大便の状態、口内清拭や痰吸引状況等々の記録で、私の感情や感想などは一切書いていない。私の感情の波が、病状観察の正確さと看護の正確さとをそこなわないようにと考えてのことだった。母が亡くなって5年になるが、捨てずに保存している。母の終末記録であると同時に私の仕事の記録でもあるからだ。 そうそう、母の在宅看護に入り、私は男性の訪問看護師が最初にやって来た日、彼に画家としての活動をすべて止めざるをえないことと、その胸の内を告白した。私は初めて人前で涙をこぼした。それで私の何年つづくかわからない看護の覚悟ができた。しかし、私の人生の習慣となっていた創作意欲が閉ざされ、私の精神を苦しめた。そこで、それを幾分でも安らげるために、2010年1月1日から1年間、日記として俳句を1,000句つくることを決め、実行した。同年12月25日にちょうど1,000句ができた。その日は、私が好きな与謝蕪村の命日、「蕪村忌」であった。最後の句は、「蕪村忌や障子貼り替ふ紙白し」。私は手製の句集『青穹千句』をつくった。