焼きたてのパンの匂いに誘われて
ベーカリの前を通ると酵母の匂いと焼きたてのパンの匂いが漂っていた。間もなく昼になる頃で、たぶん早朝一番窯から始まって二番窯くらいにちがいない。私はパンの焼ける匂いが好きだ。嫌いな人はいまい。急ぎの用事があったのでそのまま通り過ぎてしまったが、そうだそうだと思い出した。 枕元に積んで眠る前にちょこちょこ読んでいる英語の短編小説。もう何度も繰り返し読んで、今は細部に小説のおもしろさを拾っている。その中の二人の作家が、まったく同じと言ってもよいようなベーカリにおける焼きたてのパンについて書いている。レイモンド・カーヴァーの『ア・スモール、 グッド・スイング(A Small, Good Thing)』と、ウィリアム・サローヤンの子供向け短編連作のような『パパ、ユー・アー・クレイジー(PAPA,YOU'RE CRAZY)』の第31章「ローフ(Loaf ; パン)]」である。 カーヴァーの "A Small, Good Thing(ささやかな、良い物)" は、まったく同じ物語が "The Bath (入浴)" に語られている。推測するに、「入浴」を書いたあとで後半を大幅に加筆して「ささやかな、良い物」が出来上がったのではあるまいか。そして、「ささやかな、良い物」の終結部に、ベーカリでの焼きたてのパンが登場する。「入浴」が一種のサスペンスで終わったとすれば、「ささやかな、良い物」は癒し----人生の不幸からの立ち直りの暗示、----大江健三郎さんが言われる〈rejoice〉----という結末。作者、レイモンド・カーヴァーの心の変化だろうか。 短編小説なので物語の抄述は避けるが、絶望のどん底にいる夫婦に、しがないパン職人が焼きたてのパンをさしだす。そして言う。 〈"You probably need to eat something," the baker said. "I hope you'll eat some of my hot rolls. You have to eat and keep going. Eating is a small, good thing in a time like this," he said.〉 (「あなたはたぶん何か食べる必要がありますよ」とパン屋は言った。「私の温かいロールパンを食べてください。食べなければ。どんどんお食べなさい。食べることは、こんな時にはささやかな、良い物ですよ」と彼は言った) そして、 〈"Smell this," the baker said, breaking open dark loaf. "It's a heavy bred, but rich." They smelled it, then he had them taste it.〉 (「この匂いをかいでください」と褐色のローフを割りながらパン屋は言った。「ずっしりしたパンですが、おいしいんです」 彼らはその匂いをかいだ。それからパン屋はそれを二人に味わわせた。) さて、ウィリアム・サローヤンはというと、 家計のやりくりに(明るく)四苦八苦している作家の父親と10歳の息子がドライヴをして朝帰りの途路、歌いながら運転していた父がうたうのを止め、深く息を吸った。 〈”Somebody's baking bred somewhere. Would you like some fresh bred?" "I sure would"〉 (「どこかで誰かがパンを焼いているぞ。焼きたてのパンは好きかい?」「もちろんさ」) 父子はパン屋を見つけてドアを叩くが、店が開くのは7時だと言われる。まだ6時である。 〈”What are you baking back there" "Bread and rolls." "How about letting me buy some? I don't often get a chance to eat freshly-baked bread." "You want to come in, then?" the baker said, so my father and I went in.〉 (「あの裏でどんなパンを焼いているんだい」「食パンとロールパンさ」「いくつか買わせてもらうというのはどうかな。焼きたてのパンを食べるチャンスは滅多にないんでね」「それじゃ、来るかね」パン屋は言った。それで父さんとボクは中に入った。) そして、 〈The baker came over and broke open a roll and put some cheese in it. I thought he was going to bite into it himself, but he handed the roll to me and said, "Always remember bread and cheese. When everything else looks bad, remember bred and cheese, and you'll be all right." "Yes, sir." "That's why I'm a baker," he said. "I tried a lot of other things, but this is the work for me."〉 (パン屋がやって来て、ロールパンを一つ割り、その中にチーズをいくらか入れた。ボクはそれを彼自身が齧るつもりだろうと思った。だけど彼はそのロールパンをボクに手渡し、そして言った。「いつもパンとチーズを覚えておくんだね。何事も悪いときはパンとチーズを思い出すんだ。それでキミは万事うまくいくんだよ」「はい、わかりました」「それが私がパン屋だという理由さ。いろんなことをやってみたさ、でも、これが私に合った仕事なんだ」) と、私は二つの小説のなかの焼きたてのパンを思い出したのである。そして、手早く用事をすませ、帰宅するや、ドンクのバゲットを焼き、チーズをのせ、焼いたソーセージと野菜サラダにブラックコーヒーの昼食を摂ったのだった。