幼稚園生活で情感が豊かに(入園式出席)
朝から勘違い。スケジュール表の誤記入だったのだろう、幼稚園入園式出席を2時間も早く出向いてしまった。幼稚園に到着して初めて勘違いと気づいた。出直して来ますと言って一旦帰宅した。 じつは昨夜、きょうのスケジュールを確認したときに、随分早く式典が始まると思ったのだが、子供は早起きだからなーと、不審もいだかず勝手に納得していた。で、今朝は5時半に起床したのだった。 幼稚園のお式は、先生方の工夫で楽しいし短いし、なにより可愛らしい。来賓として招かれて喜んで出席させてもらっている。始まる前に園長先生と話していて、新入園児たちにとって、同年齢の大勢の子供たちの集まりのなかに加わるのは、生まれて初めてのことなのだと言われ、なるほど、それはちっとも意識しなかったと、ヘンな感心をした。また、昨年の卒園式では拭っても拭っても涙がこぼれる子がいたことを話すと、友達とすごすわずか1年間の幼稚園生活のなかで情感が豊かに育つのだ、と。 私の4歳5歳というと、北海道の羽幌町に住んでいたころだ。進駐軍列車を見(後に間違って家族で乗ったが)、米軍兵士から赤い小さな本を何冊ももらい、レッドパージ(共産主義者追放)のときは父の話から「クビキリ」という言葉をおぼえ、つづく朝鮮戦争勃発時には落下傘部隊の降下を目撃した。食糧統制の「米穀通帳」があり、商店には売り物が何もなく、私は母の言いつけで小麦粉を持って製麺所に行き饂飩にしてもらったものだ。製麺機から饂飩が簾のように出て来るのがおもしろかった。間もなく、ラジオからは外地からの引揚者の「尋ね人」が放送されだした。戦争で家族は散りぢり、生死さへ分からなくなっていたのだ。 ----私は幼稚園を知らない。昭和23年から25,6,7年時代の地方の小さな町。幼稚園がなかったのだろう。それに、近所には、私より1,2歳下の女の子がいただけで、同年齢の幼児がいなかった。一人もいなかった。私は終戦3ヶ月前に生まれたが、他家では父親となるべき人はまだ戦地にいたのかもしれない。私は野球の川上哲治選手をまねた赤バットを買ってもらい、母がどこからか調達した布で手作りしてくれたユニホームを着て、たった一人で得意になっていたものだ。 きょう、園長先生が「友達とすごすわずか1年間の幼稚園生活のなかで情感が豊かに育つ」と言われたが、たしかにそうなのであろう。私はくらべることができないながら、自分自身を思い出して、4,5歳ころからの記憶が映像とともに鮮明だ。 上記の事もそうだが、羽幌町大火の記憶がある。後年、それが昭和27年の南大通りの20棟38世帯全焼の火災であることを知った。床の間の窓を父と伯父と下宿していた高校生とが占領して望見し、私は三人の大人たちの脚の間にまとわりついて、見えない悔しさに地団駄踏んでいたのだ。そのときの大人たちの話しさえ、よく憶えている。再建された羽幌映劇の2階席で能に材をとった舞踊「土蜘蛛」と「ジャガタラお春」の芝居を見た。巡業の大相撲で、弓取式に使う弓を我家に借りにきた。その弓で力道山さんが弓取りをした。料亭「丸た」に入り浸っていた父を母といっしょに迎えに行き、父のなじみの芸者京子(名前も忘れていない!)から、講談社絵本『虫のいろいろ』をもらった。それは私の大切な本となった。私の昆虫好きの因となったかもしれない。「丸た」の玄関先にぶらさがっていた名入りの軒灯も憶えている。----- 「みんなでなかよく、元気にあそんでちょうだいね!」と私は思わず口から出て挨拶したが、豊かな情感が育ってほしいものだ。----日本の今の社会、ほんとうにそれが必要だと、私は日々痛感しているのである。