山田維史の遊卵画廊
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今日は午後いっぱい4時半まで、民生委員・児童委員と各関係機関をまじえての、年間を通しての重要な会議のひとつに出席。 一般には見えない私たちの活動である。このような一般には見えない私たちの活動が、じつは大変多い。辛さ苦しさ悲しさに寄り添って、隠忍、無言のサポートに徹するために、私たちのネットワークを確認し、また、あらたなネットワークを構築しなければならない。そのための学びを兼ねた会議である。 帰りに、別件で私に寄せられた相談事にシルバー人材センターを利用できないかと思い、センターを訪ねた。話を聞き、その情報を持って相談者宅に立ち寄る。 そんなこんなで、動きまわった。最高気温35℃。この暑さも今日がピークと聞いたが、さてどうだか。夏バテはしていないが、夕食は鰻丼にした。
Aug 31, 2018
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昨日は午後に民生委員・児童委員の会議に出席。今日は高齢者の安否を問う訪問、6件。 きのう会議の帰りに八百屋の前を通ると、小さな末成(うらなり)の胡瓜がたくさん袋詰めにされているのが目についた。おっ! あれでピクルスをつくろう。 というわけで、今朝、朝食前にちょこちょこっと作業してピクルスを一瓶漬込んだ。昼、バゲットとチーズに添えて食べてみた。まだ少し浅いが、おいしかった。 庭の柿がだんだん色づいてきて、鳥が啄んでいる。半分ほど食べると枝から落ちる。この時期になると、この半欠けの柿を拾い集めるのが朝の日課になる。やれやれ、全部食べてくれるといいのだが、と思いながら---。それにしても良い目、良い嗅覚をもっている。赤く熟している実だけを選んで食べている。おりこう、おりこう。 【参考:私のピクルスの作り方】(1)保存瓶を煮沸消毒しておく。(2)ピクルス液を作る。→(瓶の大きさによって分量を加減)1ℓ瓶に対し純米(穀物)酢1.5カップ、水1カップ、砂糖(私は少なめに)9g(スティックシュガーなら3本)、塩(これも少なめに)5ccスプーン1(中匙1)、黒粒胡椒6〜7粒、あればローリエ1、を煮立てる。(黒粒胡椒とローリエをやめて、唐辛子1〜2本にする場合もある)(3)野菜(胡瓜、大根、人参、ベビーコーン等好きずきに)を洗い、ざっと茹でる。(4)茹でた野菜を水切りし、雑菌がつかないようになるべく手早く瓶に詰め、液を満たして密封する。 私の場合は、自分の健康を考えて砂糖と塩を少なくしています。粒胡椒や唐辛子で味にめりはりができますから、それで充分です。
Aug 29, 2018
44年前に講談社が刊行し、私もイラストレーターとして関わった、異色の児童書ドラゴンブックス・シリーズの一冊、佐藤有文著『悪魔全書』が、大勢の読者からの復刊リクエストを受けてこのたび出版社「復刊ドットコム」から刊行されることになった。先日、このブログに書いたとおりである。 昨日、同社のウェブサイトに告知されたので以下におしらせします。 https://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68326736&tr=tb 当時、この本に怖さを感じながらも夢中になり、意識下にある抑圧されたイメージの豊かさを知った子供が、現在、おそらく50代半ばになられているであろう。佐藤有文氏は亡くなられて久しいが、昔の読者諸氏に、私からあらためて「おひさしぶりです」と挨拶をおくります。
Aug 28, 2018
前から予定していた用事のため朝8時に外出。午後2時30分帰宅。何用だったかは書かないが、結果は私には慶ばしい。万々歳である。 しかし帰宅すると、ドッと疲れた。「疲れた」を禁句にして歩んできたが、近年はそれを破っている。人前でこそ言わないが、こんなところに書いている。---まあ、しょうがあんめ。 子供たちの夏休みが終わった。朝、行き会う中学生たちの手に、夏休みの研究だろうか、何やらB3版ほどのビニール袋に入れたものを抱えていた。狭い歩道で譲り合いながらすれ違い、「おはよう、ありがとう」と声をかけると。はにかむような微笑みがうかんで、コクリとうなづいた。----今日もまた、夏はこれからのような、猛暑だった。
Aug 27, 2018
なんという暑さだ。日中の気温37℃。先日、「秋たちぬの感じ」と書いたが、夏、真っ盛りじゃないか! 湿度80%、暑さがじっとりと肌にまといつく。 高齢者訪問は1件だけにした。元気な様子を拝見しても、出る言葉は「暑い!」。 とはいえ私は久しぶりにゆっくり休んだ。昼寝もした。 ベッドに横になって、適当に手にした本が、英語のシェイクスピアの『リア王』の登場人物の分析。読みながら、この戯曲の真の意味は、日本人が上演しても明確に表現することは不可能かもしれない、と思った。 劇の冒頭で愚か者のリア王が、劇の最後に智を得る。この過程に介在するのが、シェイクスピアの時代のイギリス人にはほとんど理解されていなかったクリスチャニティー(キリスト教)だと言う。イギリスは当時、「pre-Christian times; 前キリスト教時代」。つまり、シェイクスピアの『リア王』は、異教世界(pagan world)におけるキリスト教演劇(Christian play)なのだ、と。 リア王に疎まれた末娘コーデリアとケント伯爵とが、自ら認識しているのではないが、クリスト・ライク・ネイチャー(キリストのような性格)な人物で、その言葉や態度の「plainness; 率直さ」が、異教的性格のリア王には「pride; 高慢」と受け取られる。 おもしろいことに、フランス人はコーデリアが王に対する憎むべき罪を犯したと考えることができなったようだ。フランス人も必ずしもキリスト教を理解していたわけではなかったのだが---。そして、作者シェイクスピアでさえ、キリスト教に帰依していたわけではなく、彼の内心にキリスト教的なものが目覚めていたのらしい。この戯曲の中に出て来る言葉、「begot - bred - loved」そして「obey - love - honour」の間のバランスは、たんなる修辞的な技巧ではない、と。 この分析、昔読んだはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。 ----異文化理解とか、比較文化研究などと言うけれども、演劇に関して言うなら、上述したように、日本人が外国戯曲をどれだけ「真の意味に到達する」上演をしてきたのか、また、上演できるのか、私はしばし考え込んでしまった。
Aug 26, 2018
午前中に市から依頼された高齢者の安否を問う訪問。8名まで訪ねたところで、暑さのためにやや頭痛がしてきた。アンダーシャツはすでに汗みどろだ。すぐに切り上げて帰宅。冷たい茶を飲み、シャワーを浴びてベッドに横になった。訪問しなければならない方はまだまだ20名ちかくいらっしゃる。 9月に私は人間ドックに入る。もし何か異常が見つかった場合、依頼された件を期限までに終了させられなくなると思い、あわてて時間を割いて訪問をはじめた。 1時間ほど横になっていたら頭痛も消えた。昼食を摂って、制作を開始。 午後5時30分、とうとう作品が完成した。随分長く取組んでいた。しかし、これで約束の期限までに悠々間にあった。数日寝かせてから署名することにする。 閑話休題 44年前に講談社から刊行された異色の児童書・佐藤有文著『悪魔全書』について、復刊を望む声が多くあり、出版社「復刊ドットコム」から刊行されることになった。私は挿画家として著作権を所有しているので、同社から復刊許可を求められていた。昨日その交渉がまとまった。11月刊行を目処に編集作業がすすめられるそうだ。近日中に「復刊ドットコム」のウェブサイトに予告が出るであろう。 すでにこのブログで私は『悪魔全書』を含む講談社ドラゴンブックス・シリーズについて書いている。シリーズ全11冊のうち私は8冊にイラストレーションを描いてい、その総数は260点以上になる。 私はその数年前にイラストレーターとして出発していて、出版各社からの依頼をこなしていた。しかし、それはまだ手探りで原稿を描いていたようなものだった。昭和49年(1974年)6月に開始したドラゴンブックスへの私の執筆は、翌年6月までちょうど1年間つづいたが、それは私にとって実に過酷な1年間だった。並行して他社のための執筆もしていた。私はほとんど外出もできず、数日毎に絵を取りに来てくれる編集者に、つぎからつぎに渡す日々。顔色は土気色になり、歩くとふらつくのだった。---この仕事がすべて終了したとき、私ははじめて「もしかするとイラストレーターになれるかもしれない」と思った。 それから44年経って、ドラゴンブックスの原本は自分がやった仕事の資料として保存してあるが、刊行以来ほとんど目を通したことがなかった。「復刊ドットコム」の澤田氏からお話があって、自作をチェックしながら、まるで1,2年前のことのように当時のことを思い出した。編集者とのやりとりや、執筆者佐藤有文氏のことなど、その面影とともに、あざやかに記憶の底から浮かび上がってきて私を驚かせた。 実のところを言えば、出版用原稿の描き方もほとんど知らないような新人も新人、若描きというにさへ恥ずかしいヘタな絵が、44年も経って再び日の目をみるのは忍びない。が、関わったイラストレーターは私だけではない。他の先輩諸氏はすでに亡くなられているとは言え、私が復刊をこばむ立場にはない。 恥ずかしいヘタな絵が大勢の読者の目にさらされ、しかもどんな弁解も通用しないことを思い知った。ひとたび刊行された書籍挿画は、作者の思惑とはまったく別な生死をもつのだ。ドラゴンブックスをもって私の心の中に、口には出さないものの、「どんな小さな1点の絵でも、決して揺るがせにはすまい」という信条(モットー)がうまれた。 このたびの復刊によって、再び73歳の絵描きの恥をさらし、あらためて信条を胸にたたんで、残りの生をやってゆく。
Aug 25, 2018
夕方まで執筆。それから合唱練習場におもむく。合唱は良い感じの出来(と思う)。 夜に入り、小雨。台風20号の影響らしい。風もやや出てきた。
Aug 23, 2018
きょうは午前9時から執筆を開始し、午後6時に終了した。そろそろ完成が見えてきた。ゴールは日曜日か?----月末、来週月曜から他用のスケジュールが詰まっている。完成まぢかでの他用はちょいとイヤナ感じ。神経が張りつめているからだ。それに、明日の夜は合唱練習がある。歌っている場合ではないが、コンサートが二つ控えている。新曲の仕上げもあるので、やはり出席しなければなるまい。
Aug 22, 2018
午前10時に制作を開始、午後21時に終了。 もうそろそろ夏も終わりか。秋立ちぬの気配。庭の柿の実が5センチほどになった。今年もたわわだ。
Aug 21, 2018
忙しかった! 朝5時に起床、7時半に家を出て、次々に仕事をすませる。 途中でちょっと心配な高齢者に声をかけるが、私自身も、元気元気と言いながら、帰宅するとぐったりだ。仕事場に入っても、気を入れ替えて創作にとりかかれない。私の特技と思っていたギア・チェンジ。---パッ、パッと場面を入れ替えて集中してゆけたのに、気力と体力とがアンバランスになってきている。トシなんだねー。 しかし、そんなことも言っていられない。今、夕食をすませて一休みしているが、夜、一筆二筆なりともやっておこう。
Aug 20, 2018
人間ドック予約のために朝早く電車で出かけた。 自分の住んでいる市内ではなかったので、帰宅まで午前中いっぱいかかった。しかも、我ながら何をやっているのだか、帰りに再び電車に乗って二駅目に「アッ!」と気がついた。病院に手荷物を忘れたことに。大事なものが入っている! あわてて電車を乗り換え、二駅戻った。そしてまた気がついた。戻るためのキップを買い直していなかった。このままでは改札を通れない。 改札横の窓口から中の駅員さんに声をかける。簡単に事情を話すと、駅員さん、「そのキップを御持ちになって出てください。また御乗りになるのでしょうから、声をかけてください。そのキップで御乗りください」「あらたな料金をお支払いしますが---」「いえいえ、どうぞこのまま、お出になってください」 私はその言葉どおり、改札を出て、およそ900メートルの道のりを病院まで駆けた。 いやー、荷物は入院受付に届いていたのだ。私の受付番号札をめじるしに添付して。私が荷物を忘れて去ったあとで、次の人が「今の人が忘れたみたいです」と届けてくれたので、受付も私の番号札をすぐに添付することができたのだろう。 かくして、再び900メートルを駆け、さきほどの駅員さんに声をかけた。「あっ、さきほどの方ですね。どうぞ御通りください」「ありがとうございました。おかげで、忘れ物がみつかりました。ほんとうに、ご親切さまでございました」「よかったですね。お気をつけて」 電車の座席に腰をおろし、汗だくになりながら、どっと疲れてしまった。 家の近くのコンビニエンス・ストアでアイスクリームを幾つも買い込んだ。 帰宅するや取るものもとりあえず二つ食べて、ふとカロリー表示を見ると、500kcalを越えていた。フランスパンで昼食にするつもりだったが、「やめておく」と言い残して仕事場に入った。 ---絵筆を取る気力を失っていた。
Aug 18, 2018
他用のため、あるいは長引いた夏風邪のために、制作に取りかかれない日が何日もあったとはいえ、こんなに執筆期間が長引いているのは、私としてはかなり珍しい。 その作品が、今後もまだまだ時間が必要だけれども、どうやら全体が形を現してきた。 きょうも一日中、執筆。9月になると、また他用のスケジュールがずらりとカレンダーに並んでいる。それに、まだ日にちは決めていないが、一泊の人間ドックに入る予定だ。それで何か異常が発見されれば、また予定がガラリと変わる。何もないことを願っているが、調べるまで分からない。 とにかく描けるときに描いておかなければと思っているのだ。作品引渡しの約束期日は変更できない。
Aug 16, 2018
Tadami Yamada"Stupid Horizon" 15th August, 2018Oil stick on wood山田維史『愚かなる地平』 2018年8月15日板にクレヨン
Aug 15, 2018
Perker Solar Probe 太陽探査機が間もなく18分後(日本時間午後4時31分)にローンチ(発射)する。 2分前、コントロール・ルームから各セクションの「ゴー・サイン」確認始まる。 5分30秒遅れて秒読み開始。デルタ・フォー・ヘビー・ロケット発射。 10分後、フライト中。
Aug 12, 2018
NASA の太陽探査機、Parker Solar Probe が今から2時間後の日本時間午後4時53分、フロリダのケイプ・カナベラル米空軍基地から発射される。ロケットは昨夜のうちにセットされた。午後4時、秒読みが開始される。 プロジェクト・チームは過去8年間、困難な仕事をしてきた。太陽探査機は、火星探査機にくらべると約55倍の推進力が必要である。のみならず、太陽に到達するための軌道調整は非常にむずかしい。地球が1時間に67,000マイル(約108,000km/h)というスピードで太陽周辺を移動しているため、いわゆる狙いを定め難いのである。金星の引力を使って接近する。 宇宙探査史上、もちろん人類史上はじめての「冒険」旅行がはじまる。過日、このブログでお見せしたように、私は NASA から VIP チケットをプレゼントされた。この人類史上はじめての touch the Sun (太陽に触れる)」旅に、私の名前が探査機に同乗する。過酷な旅だと言われている。もちろん承知している。100万°Fの炎のなかに飛び込むのだもの。 さあ、もう、あと1時間30分ほどになった。【追記】 秒読みが開始され、コントロール・ルームから各セクションにゴー・サインの確認がとられる。ところが数カ所から「ノー・ゴー」の返答。風向きが思わしくないらしい。その間も、ロケットからは蒸気が排出されている。NASAから送信される画像には刻々とレジタル・タイムが映し出され、10分が経過、20分が経過、30分が経過----やがて秒読みが再開され、次々に確認がとられて行く。しかし、50分が経過する頃、中止が決定。発射は現地時間12日の午前3時過ぎと発表された。 というわけだ。24時間延期である。
Aug 11, 2018
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このブログ、『遊卵画廊』と名付けているので、美術関係のニュース等はなるべく書き留めておくつもりだが、思いに反して書き損ねていることは多い。一昨日もCNNが興味深いニュースを報じていた。 レオナルド・ダ・ヴィンチの作品として昨年11月に約510億円で落札され、ルーブル・アブダビ美術館の所蔵となった『サルバトール・ムンディ』についてのその後の研究を伝えていた。ダ・ヴィンチについて研究しているオックスフォード大学のマシュー・ランドラス博士が、CNNの電話インタビューに応えて、『サルバトール・ムンディ』は、ダ・ヴィンチの工房で助手をつとめていたベルナルディーノ・ルイーニが70〜80%描き、ダ・ヴィンチはキリストの手と顔を仕上げたと結論できる、と述べたというのである。 おどろくべき学説? ----No、である。すくなくとも私はまったく驚かない。むしろ、私自身が推測していた人物の名前が指摘されたので、そのことに驚いた。 私は、私自身が推測の根拠としたベルナルディーノ・ルイーニの作品を提示することができる。 私はこのブログで、『サルバトール・ムンディ』に関するニュースを2度取り上げている。そのなかで、作者が完全にレオナルド・ダ・ヴィンチであるかどうかについて、私のとりあえずの疑問として、レオナルド・ダ・ヴィンチは、世界を正統的なキリスト教教学に則った考えでとらえてはいない、と述べた。 したがって彼のキリスト教的な外見をもつ「宗教画」も、むしろダ・ヴィンチ自身の思想をdisguiseしたものである。その私の観察に照らすと、『サルバトール・ムンディ』はきわめてキリスト教の伝統的な宗教画に属し、そこから一歩も出てはいないのである。 この作品は注文主がはっきりしている。彼の作品群のなかでは珍しい例である。1500年頃、フランス王ルイ12世である。おそらく主題も注文されたと私は考えているが、それゆえ多分に「工房作品」の可能性を推測していたのである。 王はいずれの国においても「王権神授」を存在の根拠としている。人間世界での支配者としての自らの権力は、神から授かったものだ、というのである。王の象徴レガリア(Regaria) は、たいてい王冠・宝珠・王笏である。宝珠には十字架がとりつけてあり、即位戴冠の図像では右手に王笏、左手に宝珠を持っている。宝珠はまた帝国宝珠とも称され、世俗世界の支配者たることを示しているが、その形式は、あきらかに「サルバトール・ムンディ」における精神世界の支配者キリストの形の「模倣」である。 ---ルイ12世が絵画『サルバトール・ムンディ』を手元に所有したいと思った、その心の内を探ってみると、おもしろいかもしれない。後世のババリア王・ルートヴィッヒのように、自らが王であることに精神の奥深いところに不安をかかえていたかもしれないではないか。自己存在証明(アイデンティティ)が幻想の上に成り立っているのだから。 それでは私がベルナルディーノ・ルイーニに行き着いたのは何故か。 次の作品をご覧いただこう。 いずれもベルナルディーノ・ルイーニの作品である。これらの作品は、あえて解説するまでもないが、ダ・ヴィンチの特徴と大変良く似ている。彼がダ・ヴィンチの工房で、助手として師匠の作品を熱心に勉強していたのだろうと推測できる。聖母マリアの顔、その左手の表情。幼児キリストと幼児洗礼者ヨハネの顔。女性の顔のデッサンにおける口許のスフマート描法などは、ダ・ヴィンチの模倣といってさしつかえあるまい。 ダ・ヴィンチの女性像の口許のスフマートは、ルネッサンスの画家たちのなかでもその精妙さにおいてもっとも特徴的、そして別格であると、私は観察している。ルイーニはそれを学び取っていると思える。 しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチと弟子のベルナルディーノ.ルイーニとが大きく異なるのは、その「世界観」である。作品世界の基底に構造され作品に反映している、作者の思想あるいは哲学が、両者ではまったく異なるのである。 キリスト教の宗教画に即して述べれば、ダ・ヴィンチの聖母子と幼児聖ヨハネが、〈岩窟〉に坐っているというのも「異常」なら、『聖アンナと聖母マリアと幼児キリストと幼児聖ヨハネ』では、聖母マリアは母聖アンナの膝に腰掛けているのである。そのそばで幼児キリストが子羊を抱いている。この作品のデッサンでは、従兄の幼児聖ヨハネが向かって右に立ってキリストを見ているが、聖母マリアが母である聖アンナの膝に腰掛けているという最初のイメージは完成作まで維持されている。これもまた伝統的なキリスト教聖画から逸脱してダ・ヴィンチ独自の世界観を表明しているのである。 師匠の世界観にくらべると、ベルナルディーノ・ルイーニの世界観は、伝統的なキリスト教教学に則ることから逸脱することはない。そして、繰り返すが、『サルバトール・ムンディ』において、キリストが世界を象徴する球体を左手に、右手は祝福印を結んでいるが、イコン(聖像画)として全きものである。 もしこれがレオナルド・ダ・ヴィンチの作品だとしたなら、これほど伝統的な宗教画は唯一のものということになる。未完成作であるが、キリスト生誕を祝う『三王礼拝』でさへ、田中英道氏が夙に指摘しているように相似二重人物像が幾組も描かれ、あきらかにレオナルド・ダ・ヴィンチの特異な世界観を表わしているのである。 私の秘かな推測は、実物を精査していないのだから、数百億円の落札が見込まれる市場状況の前に、たとえマイナーなブログ日記だからといって軽々に公表するわけにはいかなかった。マシュー・ランドラス博士が、私の推理と入口は異なるであろうが、結論として同じ人物に行き着いたとは、私としては驚きであり、同慶のいたりでもある。
Aug 10, 2018
[From top to bottom] by Tadami Yamada"Nagasaki""The Crown of The World""Fragile""As escaping from the victim of the war I was born ― Self-portrait in 1945"Hand maid collage with processing by computer山田維史『長崎』『世界の冠』『壊れもの』『戦争の魔手を逃れて私は生まれた; 1945年の自画像』手作りコラージュをコンピューター加工
Aug 9, 2018
去る4日、津川雅彦氏が亡くなったという。享年78。 夫人の朝丘雪路さんが4月に亡くなって、その折りのマスコミによるインタビューで、ちょっと独特なニュアンスの追悼をされていたので、お元気にこれからも味のある老人役を演じられるだろうと、私は思っていた。 出演映画はほぼ公開時にたくさん観ている。松竹入社第一作の木下恵介監督『惜春鳥』は、会津若松市を舞台にした青春映画。1959年の作品。私は会津若松の第三中学校の2年生だったので、ことのほか印象深く記憶している。津川氏は主役若人5人組の一人、ナイトクラブの経営者の息子役だった。他は小坂一也、石浜朗、山本豊三、川津祐介。 会津若松市内で撮影された。じつはこの追悼記事を書くにあたり、YouTubeに映像の断片なりとも掲載されていないか調べてみた。当時の予告編などいくつかがみつかった。この予告編も、当時、私は観ていた。 懐かしかった。現在はほとんど見る影も無い昭和34年当時の会津若松市がそこに在った。 鶴ヶ城の様子---北出丸も本丸の天守閣跡の石垣も昔のままに。西出丸の囲み堤、そこに立てば私が住んでいたところはほんの目の先、中学校の大成館(一般校の講堂兼体育館。藩校「日新館」に在った孔子廟「大成殿」に因む)も望めたのだ。飯盛山の大石段。御薬園。神明通り、ああ洋服の山形屋が写っている。---そして会津若松駅。この撮影時より5,6年前まで駅頭に人力車も駐車していたなんて、現在の会津若松市民のどれだけの方々がご存知だろう。 ついでに述べれば、映画のなかで飯盛山の白虎隊士墓前で剣舞「白虎隊」を舞っているのは、我が母校・会津高等学校剣舞会である。同校剣舞会のみが1885年来の正統「白虎隊」を継承し、墓前に奉納することが許されている。吟詠される佐原盛純の七言二十行の漢詩「白虎隊」は、城址内「武徳殿」に掲げられている。 映画を見終わるまでに若山彰がうたう主題歌をすっかり覚えてしまった。「〽 流れる雲よ 朝空に朝空に---」 ああ、まだ忘れていない。しかし、いまでは合唱団のレパートリーの歌詞を覚えるに四苦八苦しているしまつだ。映画『惜春鳥』は、まさに私自身の惜春鳥だった。繰り返す、津川雅彦氏の松竹デビュー作品である。 この映画で共演していた小坂一也氏もすでに亡いが、伊丹十三監督『マルサの女』でご両人は共演していた。小坂氏は津川氏の芸能プロダクション「グランパパプロダクション」に所属されていた。 公開時には観ていないが、『狂った果実』に津川氏は石原裕次郎の弟役で出演していた。この『狂った果実』(1956年、日活)、私の映画的記憶に周辺的記憶として残っている。それは一枚のポスターとしてだ。 1956年7月公開というから、私が会津若松市に住む2年前だ。したがって『狂った果実』が会津若松市の映画館で上映されたのは、2年遅れか、あるいは再上映だったのだろう。若松女子高校(現・学鳳高等学校)の真ん前、竹田病院通りに入る十字路、向かって右に齋藤米穀店があり左に何の店だか忘れたが木造の建物の商店があった。裏手は山鹿素行誕生地。その正面の一隅に映画ポスター掲出用のスペースがあり、そこに『狂った果実』が貼ってあったのだ。どうしてその1枚だけが記憶に残ることになったのか。理由はわからない。観たい観たいと思ったが、当時小学1年生の末弟が手紙で「ぼくは おかしを がまんします。にいちゃんは べんきょう がんばってください」などと書いて寄越すので、映画にうつつを抜かしていられなかったのかもしれない。 そんなわけで、7歳の津川雅彦氏が澤村マサヒコ名で出演した『狐が呉れた赤ん坊』(1945、大映)も、少年厨子王を演じた溝口健二監督『山椒大夫』(1954、大映)も観ているけれども、みな後年のこと。『惜春鳥』が津川雅彦という俳優を知った、私にとって最初の映画作品だ。 もちろん『お葬式』の隣の医者役にはじまる伊丹十三作品の常連俳優であったことについては、あらためて述べるにおよばない。 たしか伊丹十三氏の『「お葬式」日記』だったと思うが、津川さんが撮影現場入りしてゆっくりお茶をのみながらゆるゆると衣装替えなどしているうちに役になってゆく、というようなことを書かれていた。 私はとてもおもしろく思った。「役づくり」「役に入る」「役になりきる」「役を引き寄せる」「役を生きる」「役の性根(六代目中村歌右衛門の言葉)」---俳優が演じるについて、さまざまな言われ方をする。津川雅彦という俳優の演技の、なんと言おうか、「自然らしさ」が、ゆっくりお茶を飲むことから始まっているのかと、私は伊丹監督の観察から納得したような気になっている。 『山椒大夫』における少年厨子王のように、貴族の子供を演じるにふさわしい気品ある美しさ(その持ち前の御鼻のかたちはまさに貴族風)の二枚目だったが、青年期には危険をはらんだ現代青年、あるいは重厚な上級武士、後年のややコミカルな人物など、役の幅は意外なほど広い。若いときに二枚目といわれた俳優が、そうした世間的なキャラクターに呑み込まれずに確かな演技者として活躍されたことは、あるいは特筆に値するかもしれない。 それにしても、これから、「自然らしい」老人を演じられることを期待していたのだが、残念である。 津川雅彦氏の逝去を悼みます。
Aug 8, 2018
一日中、降ったり止んだりで、久しぶりに猛暑がかげををひそめたので、エアコンデショナーを止めて夜の窓を開けた。そして夕食後、再び仕事場に入り裸婦像の微妙な描写をつづけた。 20時30分、電話が入った。高齢者からの緊急な用件かと思いながら受話器をとると、ちくしょうめ! 何だかを買わないかだと。「あんた、何時だと思っているんだ、礼儀をわきまえなさい!」ガチャン! まったく、いつのころからか知らぬが、商人が商業道徳をわきまえないばかりか、相手が誰とも知らぬまま適当に電話をかけてきて物を買えと言う。時間もわきまえない。自分勝手な時間に、朝であろうと夜分であろうとかけてくる。 まあ、私はその種の電話は、まったく相手にしゃべらせない。即座にガチャン。私は「変わり者」だ。人に勧められて物を買うことは、まったくない。まったくだ。もっとも、相手はそんなことは知らないだろうが。電話で商品購入勧誘などもってのほか。見知らぬ人とそんな話をするような人間ではないのだ。時間が無駄だ。 とにかく、ちくしょうめだ、制作の精神集中が削がれてしまった。おっぱいを描いていたのに!
Aug 7, 2018
午後5時、きょうの制作を終了。雷鳴が轟いている。 制作中のBGMは、マイケル・ジャクソン。 「This Is It」 「Beat It」 「Smooth Criminal」 「Billie Jean」 「Thriller」 「The Way You Make Me Feel」 「Earth Song」 「Bad」 「Dangerrous」 「They Don’t Care About Us」 「Remember The Time」 「You Are Not Alone」 「We Are The World」 「Pepsi Generation」 「If I Could Be Where You Are」 「Don't Stop Til You Enough」 「Rock With You」 「Slave To The Rhythm」 「Heal The World」 「You Rock My World」 「Scream」
Aug 6, 2018
Tadami Yamada"I Believe Humanity ; No.1,2,3,4,5"2018. Oil on canvas山田維史『私は人智を信じる; No.1,2,3,4,5』2018年 キャンヴァスに油彩
Aug 5, 2018
夜7時半、遠くから打ち上げ花火の音が聴こえだした。よほど遠いらしく、くぐもったような重い音が地響きのように、ドンと鳴る。砲声のようでもある。 夕食をすませて仕事場に入り、再び執筆をしようかどうしようかと決めかねていた。主要な女性人体描写にとりかかっているので、切りが悪いところで止めると筆あとが残る。厚塗りだとどうということもないが、薄塗りを重ねる描法だ。筆後が後々まで影響して、私はそれを嫌う。・・・あとで処理に手間取ることになるより、今夜はもう止めだ。
Aug 4, 2018
替え歌。『線路は続くよどこまでも』のメロディーで。 猛暑はつづくよ いつまでも 野をこえ 山こえ 谷こえて 日本国中の ひとびとが 高値の野菜には こまりがお 熱中症には 気をつけて 救急車の サイレンを 聞かずにすむなら ぼくたちも たのしい夏の歌 うたえるよ こんな戯れ歌をくちずさみながら、きょうも一日執筆。 夕方、遠雷が聴こえていたと思ったら、7時頃、ぱらぱらと申し訳程度の雨が降った。いっそ、ザーッと一降りすれば、少しは温気も冷えようものを。 そういえば、画廊の私の担当者が、熱中症になったと言っていた。冷房の効いた部屋にいたので、水分補給をしなかったためらしい。
Aug 3, 2018
37℃だぜ、マったく。100万度のコロナに突っ込もうという奴が、たかが37度に音を上げるのもどうかと思うがねー ・・・・ 暑い暑いと愚痴を言っても始まらないので、執筆を開始。 そこへ画廊のプロモーターから電話。制作の進捗状況の確認を兼ねた来年の国際展のスケジュールについて。 なんだかんだと、ほとんど私からの一方的な長話し。最後には、「みんな私がいたりません」と、グズグズ言うのをやめて、「目下の作品が完成したら、次のプランにとりかかります」。 とは言ったものの、どういう方向へ展開したらよかんべー。 プロモーターは夏休みだそうだ。・・・・まあ、人は人、私は私だ。
Aug 2, 2018
昨夜は火星が15年ぶりに地球に最接近した。けれども私は見るのを忘れていた。弟が俳句をみてくれと持ってきて、そのなかに火星接近を詠んだ句があった。ところが、リコの墓参りだ、なんだかんだとやっているうちに、すっかり忘れてしまったのだ。次の機会は15年あるいは17年後。17年後だと、私はちょうど90歳。観るにはちょっと望み薄だ。 ---しかし、火星探査機 "MAVEN" には私の名前が積み込まれている。私の方から火星に大接近しているというわけである。それでよしとしよう。そして、たぶん今月8月11日には、私の名前は今度は、太陽探査機 "Parker Solar Probe" に乗って100万°Fのコロナにつっこむ。太陽表面温度が6000°Fなのに、そこから2000km離れたコロナがなぜ華氏100万度以上なのかという謎を解明するためである。 さて、きょうは終日仕事場に閉じこもって、久しぶりに制作に専念した。 予定では7月中に完成させるはずだった。そして8月11日に打ち上げられて、燃え尽きてしまうはずだった。 NASAは、探査機は華氏100万度に耐えられると言っているが---。わからないよ。
Aug 1, 2018