セーヌ河の水質と政治家のパフォーマンス
小雨が降ったり止んだりしているので、数日間つづいていた猛暑に小休止が入った。気温は25℃前後なので、猛暑日の38℃から40℃より10度も違うのだから、過ごしやすいと感じるわけだ。 ところで間も無くパリでオリンピックが開催される。しかし現時点でなお憂慮されているのが、トライアスロン競技の水泳会場と予定されているセーヌ河の水質問題である。パリ当局は水質浄化にやっきになってい、パリのイダルゴ市長は懸念を払拭するために、先日10日、自らが来週遊泳してみせるとフランス・ラジオ局のインタビューで語った。ところが市当局の水質検査で許容水準を大きく上回る大腸菌が発見されたという。この検査は6月3日から7月2日までの30日間の水質を分析し、そのうち22日間に許容水準を超える大腸菌が発見されたのである。健康被害が出る可能性をオリンピック委員会が如何様な判断を下すか注目しなければならないだろう。 この問題で私が思い出すのは、日本の放射能汚染が懸念された水質問題である。このとき、担当大臣が、その懸念を払拭するために、自らがその水を飲んでみせると公言した。パリ市長がセーヌ河で泳いでみせると言ったことと全く同じ政治的なパフォーマンスである。 やるなら勝手におやりなさい、止めはしません、というのが私の言葉。そう言い置いて、私のもっとも懸念するのは、このようなパフォーマンスを政治姿勢としている当人の感覚である。その思想である。その非科学的な・・・つまり非理論的な方向性の誤りを政治と心得ていることである。そういう人物が政治に登場してきている現状を、私は危惧するのである。 大腸菌がいっぱいいる河で泳いでも特に健康被害はなかった。放射能に汚染されているかもしれない水を飲んでもさしあたりの健康になんら問題はなかった。・・・と、その実行者はそうだったとして、おのれたった一人の例が、他の万民の例になるだろうと考える軽薄さ。たった一人の例は、「特例」としてサンプリングされても、統計学のおしえる「証拠」とはならないのである。いま流行りの、バカのように口走る「エビデンス」にはならないのである。 ・・・政治というのは「騙しのテクニック」であるという一面を私は否定しない。それが良いと思っているわけではないが、聴き分けが無い者に対する嘘も方便で、そうでもしなければ事は進展しないからである。しかしそこには程度というものがあって、人倫に悖ってはなるまい。根底において個々人の尊厳を否定する方向性は、政治力学においては完全否定されなければならない。 セーヌ河遊泳試行や放射能汚染水飲料試行などの政治的パフォーマンスが「エビデンス」となるのは、その実行者が死んだ場合だけである。それがたとえ1/100,000,000 の死であっても、人間、生きるか死ぬかの存在にとって外在理由によっての死は、たった一人の死でも証拠になるのである。政治家や政治を志す者は、そのことを忘れるべからずである。