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カテゴリ:日常雑感
昨日にもまして暑かった。正午過ぎの気温31.5℃。 この陽気のせいではないだろうが、小庭のカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)が開花しはじめた。しかも去年は文字通りひとつも花をつけなかった。ことしはたくさんつけている。エネルギーを1年間たくわえていたのだろうか。・・・花の気持はわからない。藤のような大きな白い穂状花が満開になり、重く垂れ下がるのが楽しみだ。 一日中、読書。 戦後数年間の幼い頃の記憶が、パッとよみがえり、意味があきらかになることがある。幼児の目に焼き付いた影像が、個人の記憶から日本の歴史の大きな意味に結びつくのである。いま78歳になって! ・・・・・・・・・・・・・・ 【追記】 まったくの家族写真を掲載するのもどうかと思うが、上に述べたひとつの例として一枚の写真をめぐって書いてみよう。(下に掲載) 撮影年月日が母の筆跡で裏面に記されてある。昭和25年(1950)12月4日。写っているのは、母と私(5歳)と弟(2歳)。母は撮影年月日につづけて、「12月2日 主人長野県へ転勤後」と書いた。 ここに一つの家族の小さな物語と、その背景に戦後日本の歴史がはりついている。 この写真を撮影した場所は北海道の羽幌の写真館である。父は北方中国の戦地から復員後に婚約者(母)と結婚し、兵役招集前まで勤務していた住友金属鉱山に復職した。そして私が生まれた昭和20年5月の時点では、伊豆の土肥近傍の鉱山勤務についていた。あらゆる物資に窮乏していた日本にとって、金属資源開発は戦時の(そして戦後の)重要課題だった。 清水港や焼津港を目がけて駿河湾に飛来する米軍機の爆撃は日を追うごとに増していた。そのたびに家族は防空壕に逃げるものの、赤ん坊の私は暗闇を嫌って泣くため、母は私を背負って外に出てグラマン機を見ていたという。しかし米軍の機銃掃射は激しくなるばかり。母も外に立っていられず、私を厚い綿蒲団にぐるぐる巻にくるんで、弾丸が貫通しないことを祈りながら、階段の裏に押し込めるように置いて逃げた。 私の誕生からちょうど3ヶ月後に戦争は終わった。占領軍の進駐がはじまった。 赤ん坊を守るため、そして老父母を守るため、父は鉱山勤務を退職し、当時、羽幌町の町長だった義兄(父の姉の夫)の呼びかけを頼って、羽幌町役場勤務に職を換えた。 その間に、ダグラス・マッカーサーの司令により財閥解体がはじまった。最初にやり玉にあげられたのは三井、岩﨑(三菱)、住友、安井の四大財閥だった。実行に移されたのは1946年(昭和21年)9月6日である。父が勤務していた住友はすこし遅れたらしいが、1948年(昭和23年)には、傘下の鉱山は別子鉱業株式会社という名称にあらためられた。この社名は1951年(昭和26年)6月ころまでつづいた。 じつは、父は、羽幌町役場に職を変えておよそ5年後に、住友金属鉱山に勤務していたころの上司(私は昔そのお名前を聞いていたが、いまではすっかり忘れた)の誘いと口利きで、役場勤務をやめていわば本職の鉱山技師に復職した。折りも折り、義兄の妻だった姉が亡くなった(私が影像として記憶している最初の葬儀だ。その葬式が伯母のものだった事が後年わかった)。父はおそらく、そのまま義兄を頼っていることが心苦しくなったのであろう。加えて、1950年(昭和25年)6月に、レッド・パージ(赤狩り)が始まった。5歳になったばかりの私は、役場から帰宅した父が「首切り」という言葉で母に説明するのを聞いていた。そして言葉の強烈さで記憶した。役場勤めだった父は、GHQや政府からの通達を逸早く知ることができたのだろう。同僚から追放者が出たかどうか、幼児の私はむろん知らなかった。父も話しはしなかった。さらに同じ6月に朝鮮戦争が勃発した。おそらくこれに関わることだったろう、羽幌町の上空で米軍の空挺部隊(一般には落下傘部隊と呼んだ)の沢山のパラシュートが舞い降りた。明るいうちだった。私は、たしか裁判所前の壕の水門、井戸のようなコンクリート槽の傍だったと思うが(下から小さな半透明の川蝦が這い昇ってくるのだ)、路上で見上げていた。兵士の姿がはっきり見えた。・・・そんな状況下で、父は旧上司の折角の口利きを率直に受けたのである。 その最初の勤務地が長野県南佐久郡川上村の別子鉱山株式会社甲武信鉱山だった。写真の裏書きにあるとおり、父は単身、昭和25年11月2日に羽幌を発った。現地の事務所引継と家族を呼び寄せるための家を準備するためであった。出発の前に父は5歳の私に言った。「お母ちゃんを守ってあげてね」と。私はよく憶えている。 父が出発して二日後、母は、父に送るためであったろうか、三人の家族写真を撮影した。 父は単身、川上村梓山の「白木屋旅館」に滞在したようだ。母と弟と私の三人はおよそ1年後の10月ころに川上村に移転した。到着して数日間、すなわち羽幌から家財がとどくまでのあいだ、「白木屋旅館」に滞在した。その後、山二さんの一戸建ての高さ1間の板塀にかこわれた貸家に移った。その家で2年間暮らすことになった。 別子鉱業株式会社甲武信鉱山は、その昔の武田信玄が金鉱を探索した跡があちらこちらに残る地帯である。父が入山した当時の甲武信鉱山について、現在インターネットにPDFによる書類が掲載されている。『地質調査所月報 (第3巻 第10号)』に「長野縣甲武信鉱山金銀鉱床調査報告」・・・この報告書は末尾につぎのように書いている。「昭和25年6月より別子鉱業株式会社によってふたたび開発を企てられ、目下國師、および山神鉱床群の一部を探鉱中である。」 長野縣甲武信鉱山金銀鉱床調査報告 まさにこの報告書にあるとおり、別子鉱業株式会社は梓山の探鉱も開始し、そのために私の父は呼び戻されるように復職したのだった。のちに父が私に話してくれたが、甲武信鉱山からはたしかにザクロ石が発掘された。ザクロ石は金鉱の随伴鉱物である。しかし父が勤務後およそ2年間の探鉱調査の結果、設備投資に対する金の産出量が採算にあわないと判明したのである。甲武信鉱山は稼動せずに1952年(昭和27年)4月1日をもって閉山した。5月3日、日本国憲法が施行された。 財閥解体後に住友金属から別子鉱業へと名称変更したが、昭和28年頃には再び住友金属へ名称が変わった。甲武信鉱山の閉山による事後処理ののち、父は1953年9月30日に福島県南会津郡の住友金属八総鉱山に転勤した。 八総鉱山は旧古河財閥の所有だったが、やはり財閥解体により手放し、住友が買収した。父が入山したとき、ここもやはり探鉱の最中だった。ごくわずかな職員と労務者が試掘杭を掘削していた。しかし父も調査に加わり、このまま900メートル掘れば ヒ (鉱床の心臓部)に当たることが予測できた。予測は的中し、この後、10年間、福島県随一となる銅鉱山へと発展する。10年後に日本が国際連合加盟条件として提示された貿易自由化を受け入れたことで、日本の第1次産業がほぼ崩壊するまでは・・・。(福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる三井三池炭鉱の長期にわたるストライキが、この問題の最も早い現れだった。) 以上が下に掲出した写真をめぐる我家の物語である。そして戦後の混乱のなかで父は家族を守るために奮闘していた。愚痴をこぼすことなく、笑いながら。 私は父に直接遊んでもらったことは一度もないが、植物や蝶類の採集に山野をうろついていた私のことを「野生児だねー」と言いながら、私を見守っていた。母もまた然り。父は、私の蘚苔類採集のために、鉱山杭道内に一緒につきそってくれもした。 日本中が飢え、貧しさに喘いでいた。父の転勤にともなう列車旅行、あるいは単なる家族旅行の折に、私は駅舎のゴミ箱をあさって茹で卵の殻を啜るように舐める婦人をみかけた。昭和30年代前半まで上野公園の山下には数えきれないくらいの戦災孤児(浮浪児という言葉があった)や、浮浪者がいたし、白衣の傷痍軍人が物乞いをしていた。 しかし私と弟は、食べ物の不足で苦しんだことがまったくなかった。私はいろいろな事をよく記憶してい、影像もあざやかに記憶しているが、不思議なことに母が毎日の食糧をどこで買っていたのか知らないのだ。食料品店がどこにあったかも、まったく記憶にない。 当時の国民は食糧管理制度のもとで食料配給を受ける「米穀通帳」を一世帯に一冊所持していた。文庫本ほどの小さな手帳だった。我家では「通い(かよい)」と言っていた。羽幌町にいた4,5歳ころ、私は母の言いつけで、小麦粉をもって製麺所に行き、饂飩を打ってもらっていた。饂飩屋さんに小麦粉が無かったのである。私は片道3丁、往復で1kmほどのこのお使いが好きだった。製麺機から簾のように饂飩が出てくるのがおもしろかったし、美しくもあった。・・・それより数年後、八総鉱山に移転した当初、わずかばかりの社員社宅と労務者社宅の集落に商店は一軒だけだった。早い時期に大宮鉱山から八総に入っていた「中鉢商店」である。しかしその名称で呼ぶ人はなく、「配給所」と言った。たしかしばらくのあいだ「米穀通帳」を使っていたと思う。茶箪笥の抽出にあったのを憶えている。その後、八総鉱山が発展し、鉱山関係者だけが居住する特異な住宅街が建設され、中鉢商店のほかに会社直営のいわゆるスーパーマーケットができた。しかしその直営店をも大抵のひとは「配給所」と言った。この頃は国の配給制度は存続していたもののほとんど形骸化してい、たぶん戦後のなごりが習慣となって「配給所」と言っていたのだろう。 母は幼児の私に言ったものだ。「にいちゃんは、お金のことを言ってはいけません」と。私の行動規範としてのこの教育は、現代の一般家庭の教育とことなっていたかもしれない。30歳前後の一介の給料取り(サラリーマン)だった父も母も、苦悩を一切口にしなかった。すくなくとも私たち子どもには見せなかった。父の単身赴任後に撮ったこの写真で、母は「このとおり大丈夫」ということを、父に知らせたのかもしれない。過去の歴史にとらわれず、毅然として前を向いて新生日本を生きてゆく・・・それが両親の思いだったのではなかろうかと、いまになって私は思うのだ。 1950年(昭和25年) 12月4日撮影 母、弟 (2歳)、私 (5歳)。 この写真を撮るとき写真師が、3人では具合が悪いからと言って、人形を置いた。私はそのことをよく憶えている。「迷信」がこんなところにも入り込むというようなことを、もちろんそんな言葉ではないが、私の頭に記憶された。私と弟が母とちがう方向に視線をやっているのは、たしか写真師が大型の暗箱写真機の横にシャッター・コードを持って構えたからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 31, 2023 12:13:26 PM
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