私が20歳半ばからの知人、漫画家の小澤一雄氏の展覧会に行ってきた。
長い知り合いでお年賀状を頂戴したり展覧会案内を受けて来たが、私のスケジュールの多忙のためなどいろいろあって実はもう50年も会っていなかった。彼の活躍は知っていた。全国に大勢のファンがいることも知っていた。先日、今回の展覧会の案内を受取り、私は急に会いたくなった。小澤氏は私より4歳ほど年下。彼は元気で執筆しているし、私も元気だ。しかし胸のなかに、今後はもう会えないかもしれないぞという声が起こったのだ。こんなことは小澤氏には言えないし、事実言わなかった。
会場に到着すると、彼はファンのためにサインの真っ最中だった。その手を止めて、近づいた私を見て、2秒くらいして言った。「ヤマダさん?」
こんな長い間会わずに、しかし私が小澤一雄氏とささやかな交流を保ってきたのは、20歳半ばに知り合ったとき、その少し前に或るコンペティションに出品されていた幾何学的デザインの架空ポスターに私は目をとめてい、それに私は才能のキラメキのようなものを感じ、出品者の名前を記憶した。そしてきっかけはまるで忘れたが、その人と知り合ったとき、彼はクラシック音楽に材をとる一コマ漫画家になっていた。そのとき私は確信した。小澤一雄は自分の生活と切っても切り離せない、しかも深い知識に裏打ちされたクラシック音楽にたいする嗜好を、一コマの漫画にして遊ぶことを発見した。遊びで食ってゆく術を手中にした。自己の内部に描くものがある。おそらく生涯、音楽漫画をやってゆくだろう。これは、本物だ、と。
私の絵の世界とはまるで接点はなかった。私も音楽が好きだということ以外は。
そして、会わずに50年が過ぎた。出会った時の私の確信はまちがってはいなかった。彼はオンリー・ワンの漫画世界を創った。
小澤氏は著書である漫画絵本の扉に、私が歌っているところだと言いながら筆を走らせた。
帰りぎわに、「ヤマダさんに会ったら、I さんのことを思い出しました。昔、I さんがヤマダさんの家に遊びに行ったと言ってました」と小澤氏は言った。
「そうそう、私が世田谷に住んでいたころ、絵を見せてほしいと言って・・・」
そのひとは小澤氏の熱心なファンであり私のファンでもあった。神奈川県の理容師である。職場の理容室に、小澤氏の作品や私の作品の絵葉書をたくさん飾っていたようだ。もう随分のお年のはずで、あるときからプツリと手紙がこなくなった。小澤氏に対しても同様だったそうだ。大病としらせてきたが、その後に住所が変わったらしかった。亡くなられたのかもしれない。
「おたがいに元気で描きつづけましょう」と辞去した。
展覧会場は東京・高円寺の画廊だった。高円寺は私が25,6歳頃にヌード・デッサンに通ったスタジオがあった街である。街はすっかり変わって、昔の記憶をたどることはできなかった。