1月7日、朝食は七種粥。
いつ頃からか、現代では七種粥を「七草粥」と書くようになった。私はいまのところ「七草」と書いた最初の文献を発見していないが、畑作農業がが発達して菜を野に摘むことが少なくなったからではないかと推測している。一月七日に菜として野に摘んだ植物を神への捧げものとした最も早い記録は、804年の解文『皇太神宮儀式帳』である。「解文(げぶみ;げもん)」は「解状(げじょう)」ともいい、下位の身分の者が上位に提出した文書。
芹(せり)、薺(なずな」)、御形(ごぎょう;おぎょう)、蘩蔞(はこべら)、仏座(ほとけのざ)、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ;須々代)・・・これぞ七種(ななくさ)。
この七種は鎌倉時代に成立した『年中行事秘抄』に記述されてい、このころには現在私たちが言うところの春の七草として定着していたのであろう。(後註)
と正月七日の「七種粥」の蘊蓄を述べたが、私がつくった七種粥は、その擬(もどき)。季節をめぐる日本古来の行事をなるべく再現しようと思ってきたので、とにかく擬でも一応の粥をつくった。そのような習わしをおもしろがっているだけ。古人やその和歌・俳句・俗謡などを理解できるならなお良いだろうと。情念はいっさい無い。
小野武雄編著『江戸の歳事風俗誌』(1973年、展望社刊)によれば、江戸ではこの日七種粥を祝い、この日までを松の内とした。また、新年になってはじめて爪を切る日、とある。「爪を切る」というのがおもしろい。理由を私はつまびらかにしない。
また平出鏗二郎『東京風俗志』(明治32年刊。1975年、八坂書房覆刻)には、七種祝いを「若菜節句」と称したとあるが、七草粥を食す習慣は明治後半時代の東京ではすでにほとんど廃れていたと記されている。
【註】『古典文学植物誌』(学燈社刊)の高野春代氏の記述による。
七草から離れるが、私は幼少のころに母親から「夜、爪を切ってはいけない。親の死に目に会えなくなる」と言われた。就寝前の風呂上がりに、すこし柔らかになった爪は切りやすかったのだが、母親の言う通りに切らなかったように憶えている。迷信を信じる母ではなかったが、「身体髪膚、これ親に受く」から派生した一件かもしれない。
そうそう、やはり幼少時、私は風邪などで高熱が出ると、うなされながらきまって、自分の親指が巨大になって、蟻のように小さくなった私が、その巨大化した自分の親指にのぼって爪をプチンプチンと切る夢を見た。・・・これはどういうことだろう? 中学生になったころ、その夢を描いてみようと思った。それは実行しなかったが、そのときの自己分析は、これは自分の男性器の去勢不安ではないか、ということだった。つまり病気の高熱によって自分が無力になってゆく。しかもその原因は自分自身にある。矮小化した自分が自らを巨大化して回復しようとしているのではないか?
・・・まあ、そんなふうに奇怪な夢を自己分析してみたわけだ。
薺粥箸にかゝらぬ緑かな 高田蝶衣 (1886-1930)
俎板の音のみたかし擬き粥 青穹(山田維史)
なゝくさの粥の煙や草の家