日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、昨年9月に打ち上げた月探査機「SLIM(スリム)」が本日20日未明、月面の想定地点に、(おそらく)ピンポイントで軟着陸したと発表した。日本としては初めての月面着陸という快挙である。機体の状況を示す通信がSLIMから送られてきているという。ただし太陽電池パネルは太陽光をとらえていず、現在送られてくる信号は搭載したバッテリーの電力によるもので、このままだと電池はまもなく消耗してしまう。
太陽電池パネルが太陽光をとらえていないのは、JAXAによれば太陽がSLIMの「想定外」の方向にあるためだという。
「想定外」!
何が起こるかわからないのが宇宙探査飛行ではある。その関係諸問題についてまったく無知な私でも、何が起こるかわからないところで行われている研究でありアクションであることは十分承知している。しかしながら、それだからこそ、いとも気軽に発言される「想定外」という言葉・・・その認識のありように、私は一種の恐怖を感じる。
これまで人類を月に運び、帰還させ、あるいは宇宙船に長期滞在させ、それも無事に帰還させたり要員交代をしてきた。もちろん人命を失う痛ましい事故も経験してきたうえでのことながら、これらの業績に「想定外」という言葉がはたして許されていただろうか?
たかが・・・と言ってはいけないが、しかしやはり想定した月地点にピンポイントで着陸した探査機が、「たかが」太陽光の向きをとらえることができない。それを「想定外」といい、月面軟着陸したがその成功は「60%」などと発言する。謙虚な発言ではない。透けて見えるのは気取りだ。
日本の原子力関係者にしろ、他の科学的な研究者や高度技術者にしろ、コロナウィルス禍における関係省庁や医者にしろ、じつに恥ずかしげもなく「想定外」と言う。それですべての過誤や責任が免除されると思ってはいまいか。事態の対処法としての失敗をその言葉で決着しようとしているのではないか。・・・起こった事態の説明としてその言葉を聞いた多くの人は、ほとんど口にこそ出してはいないが、「想定外」と言う言葉の真意を「無能力」と感じているかもしれない。その口に出さない反応を、発言当事者は知っているのか?
あるいは、私はこうも考える。自らの無能、シミュレーション能力の欠如を隠蔽する、また、糊塗する「想定外」という言葉が、日本社会のなかで「文化」になっているのではないか。シミュレーション能力の欠如は、太平洋戦争時の軍部の政策・戦略に顕著にみられたことだ。それは「貧すれば鈍する」の謂いそのものに発したことであったかもしれないが、物事を直視して未来を想定する社会科学の能力に徹底的に欠けていたからである。その能力を日本社会は養成してこなかったのだ。「想定」あるいは「シミュレーション」というのは、それを行う人の能力内にほぼ限定されるからで、要は既得能力とその発展的洞察力の問題なのだ。
・・・もし「想定外」という言葉が日本社会のなかで「文化」になっているとしたら、我々は容易にその文化から抜け出せはすまい。