節分会ざれ句
節分や豆ぶつけらる政所(まんどころ) 青穹(山田維史)
◯国会に豆をぶつける節分会
なやらひや盗人だらけの政所*
こそどろ安倍派九十一人厄払い**
国難は内にあるぞよ鬼は外***
歳ほどの豆を食うのをやめにけり
【註】
*「なやらひ」とは「追儺(ついな)」のこと。古代中国の高辛氏の三子が死に、一子は疫鬼となって人に病を與えた。方相氏がこれを駆逐したのをもって、追儺のはじめと伝える。現在では節分の夜に各地の寺社で追儺式や豆撒きがおこなわれる。ただし『古今要覧稿』(1780年代に屋代弘賢編纂の百科全書)によれば、元来は追儺と節分とは別で、神事の式日もちがっていたとある。
神戸市長田神社古式追儺式神事、おなじく明石市長田神社古式追儺式古式禊、福岡県久留米市大善寺玉垂宮鬼夜、京都廬山寺節分会追儺式鬼法楽、同じく吉田神社追儺式、あるいは河内松原の我堂宮八幡宮節分会湯立神事などが名高い。開催日が1月末日あたりとやや不定であるが、京都の岩清水八幡宮鬼やらいも節分の神事として知られている。
なお吉田神社の追儺式では鬼を退散させるに矢を射る。この弓は「桃弓」である。桃は『藝文類聚』(中国唐代初期624年成立)に「桃は五行の精 邪気を厭伏(ようふく)し百鬼を制す」ある。また弉諾命(いざなきのみこと)が黄泉の国から逃走するときに、桃の実を投げて追手をかわすが、『日本書紀』一書第九に「桃を用(も)ちて鬼を避(や)らふ縁なり」とあり、この思想が追儺式にもちいられる「桃弓」の由縁である。
**朝日新聞が〈「政治とカネ」を問う 〉とした連載記事で、2月1日朝刊が「訂正で追記された安倍派から議員ら側への「寄付」額。大半が裏金だったとみられる」と注記して、91人の実名と、不記載発覚までほっかむりしていた受領金額を明記した長大なリストを掲載した。取材苦労がうかがえる見事な記事であった。私はこのような徹底した取材をかつて見た記憶がない。ジャーナリズの本質的な仕事だと思った。そして、私はじつはこの新聞を手元に保存したのである。この91人の議員は、発覚後あわてて訂正記載したと言った奴もいるが、いわば「親方日の丸」のように親分の威力で、してやったりを決め込んでいたのかもしれないが、新聞記者たちもそうそうバカにされてはいなかった、ということだろう。有権者もこういうこそどろまがいの政治ヤにぶら下がっているべきじゃないネ。国政選挙・地方選挙がそんな奴らにぶら下がっているような時代じゃない、ということかもしれない。「政治家面を見たら、こそどろと思え」と言えば、言い過ぎだろうがネ。まあ、日本の政治は、左翼も右翼も、そのくらい堕落しているということだ。
***あとから思い出した。与謝蕪村の遺稿に次の句がある。「柊さす果しや外トの浜びさし(ひいらぎさす はてしや そとの はまびさし)」・・・柊は周知のように節分に邪鬼を祓うために鰯の頭と共に軒庇にさした。蕪村のこの句は、北の果て津軽外ヶ浜の貧しい漁師の軒庇に柊がさされている光景を詠んでいる。その心は、害悪が侵入しない北の果てを夢見(蕪村が津軽に旅した形跡がない)、また貧しい暮らしのなかの心映えをうたう。「外トの浜(現在、外ヶ浜と表記)」は津軽半島の歌枕であるが、蕪村は、仏教の供養塔である卒塔婆を掛けている可能性がある。また、「外トの浜」の「浜」に「浜庇」を掛け、蕪村は維駒宛ての書簡(安永七年一月十日付け)で、「浜庇」についての説は二つあるが「磯打つ浪の砂を打ち上げ打ち上げ軒端のごとくに見ゆるを浜庇という説よろしく候」と、自分の句を説明している。しかし、これは私の独断であるが、漁師の小家の庇という意味で「浜びさし」を掛けていると解釈できると考える。優れた画家でもあった蕪村は、しかし自らも貧しかった。彼の俳句は貧しい庶民の目で見た暮らしであり、そういう人たちに対する共感覚であり、やさしさである。
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Last updated
Feb 5, 2024 04:40:17 PM
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