|
カテゴリ:日常雑感
初代水谷八重子がお蔦を演じた新派の『婦系図』は名舞台。原作はもちろん泉鏡花の小説。歌謡曲にも歌われた。小畑実の『湯島の白梅』である。 その『湯島の白梅』は、少し前まで芸者だったお蔦が湯島天満宮の境内で恋人主税に縁切りを告げられ、「別れろ切れろは芸者のときに言うことば」と名セリフを言う場面を、「湯島通れば思い出す」と回想風に歌詞にしている。季節はちょうど今時分。境内に梅の花が咲いている。・・・この歌詞で私がおもしろく思うのは3番だ。「青い瓦斯灯 境内を 出れば本郷 切り通し・・・鐘は墨絵の 上野山」(佐伯孝夫作詞)とある。ここには明治の頃の地理が的確に述べられている。現在の本郷通りを東大赤門前を過ぎて十字路を春日通りに入ると間もなく湯島四丁目。道はやや左に曲がり始めるがそこが切通し坂である。天満宮は通りの右側、湯島三丁目。38段の石段をのぼると湯島天満宮である。学問の神菅原道眞を祀り、今時分は大学受験の合格祈願や祈願成就のお礼参りなどの若者たちの姿が目立つ。 湯島天満宮は地理的に高台にあるのだが、明治の頃はそこに立つと、上野の寛永寺の梵鐘が聞こえてきたのだろう。そして暮れなずむ東京市の家並みが墨絵のように望めたのだ。 現在の東京の市街はどこもかしこも目まぐるしいほど急速に変わってゆく。1年、いや、半年と昔の姿を残しはしない地域もある。昭文社版のエリアマップを手にしても私はただ呆然とするばかりだ。 ところで、前述の『湯島の白梅』の歌詞のように、東京の地理を丹念に描写している小説がいくつかある。本郷界隈だと森鴎外の『青年』。ストリートヴューのようだとは言えないが、本郷界隈がありありと見えてくる。永井荷風の小説や日記『断腸亭日乗』もしかりだ。永井龍男『東京の横丁』は御茶ノ水の近辺、明大の裏手の猿楽町の様子が語られている。 小説には主人公の行動とともに多くの街が登場する。しかしながら街の構造が読者に手に取るようにわかるという小説は意外に少ないかもしれない。イギリスのミステリ小説だと、昔のロンドン市街などは大きな変化もなく、ちまちました民家が密集しているのでもないから、たとえば〇〇通りとか△△街などと書くだけで読者に具体的なイメージが喚起されたのではないか。そのような書き方がされている。 川端康成に『弓浦市』という短編小説がある。 香住という小説家の自宅に、ある日、五十代と思われる婦人が不意に訪ねてくる。そして香住に九州の弓浦市で会ってから30年ぶりに会うことができたと言い、その思い出を縷々と述べる。香住の記憶は曖昧で、弓浦という町も知らなければ婦人に会った憶えもない。しかし、婦人の言うことは香住の友人についてなど事実のこともある。帰るという婦人を送って廊下に出ると、とたんに婦人の体はゆるみだして肉体関係をもった女のからだのようになった。のみならず婦人の二人の子供、娘と息子に、香住のことはよく話して聞かせてある。子供達は香住のことを親しく思っている。そして、「この子は香住さんの子じゃないかしらと思うことがあるんですよ」・・・婦人が帰ってから、香住は日本の詳しい地図と全国市町村名を本棚から取り出し、弓浦市を調べた。そんな町はどこにも無かった・・・ 夢の話などしなくてもよいのだが、私は夢のなかにかなり明確な構造の町をもっている。いくつかの部分に分かれているが、しばしば私はその同じ街を歩き回る。徒歩のときもあるし、自転車のときもある。バスの時も列車のときもある。郵便局や商店街や、駅の切符売り場や改札口やホームや駅員や。小さな食べ物屋が並んだ路地。その一軒のラーメン店。駅裏通りの猥雑なビル群。大通りの本屋の前から少し下って二股道の一方の坂道。両側は商店が軒をつらねているが、ある一軒の横道が友人の家への近道であることを私は知っている。鬱蒼と茂った木々のトンネルの奥の邸宅。遠くに光る河原を望む高台の全面ガラス張りの部屋。・・・等々。 しかし、現実にはそんな町は存在しないばかりか、「友人」と述べた人物が誰であるかさへ不明だ。私はときどき妙な気持ちになる。夢のなかの町の構造があまりにも明瞭で、「行き慣れて」いるので、いまや私の実体的な記憶の一部になっているのではないか、と。 以前紹介したYouTubeの「AIZUチャンネル」が、毎回、会津若松市とその周辺の観光客が行かないようなところを動画で丁寧に撮っていられる。60年前まで同市に在住していた私は懐かしさ半分、あとの半分はその変わりように呆然としながら、しかしまあ、楽しみながら観ている。 先日は会津若松市のメインストリートである神明通りと、その裏通りにあるロイヤルプラザという遊興施設が取り壊されるために、最後の姿を撮影していた。チャンネル主宰者あきくんにとっては青少年時代の思い出の建物である、と。 その建物は、むろん私の知らないものだ。60年前はそのあたりにグランド銀星という洋画専門の大きな映画館があった。こちらは私がしばしば通った映画館である。今回のあきくんの動画を観ながら、私は60年前の会津若松市街をあちらこちら思い出していた。木下恵介監督の『惜春鳥』には私が知っている昔の神明通りや、現在のテーマパーク然とした鶴ヶ城ではない、ただ石垣ばかりの鶴ヶ城が出てくる。中学生の私がうろつきまわっていた鶴ヶ城である。今ある天守閣などなかったが、今よりもっと城下町という雰囲気を私は市街のあちらこちらに感じていた。あきくんばかりではなく、おそらく現在60代になられる会津若松市民も、私が知っている会津若松市とは全然違う街を現在見ていられるはずだ。 私の資料箱に65年前の会津若松市の市街地図がある。当時、同市でもっとも充実した本棚だった福島書房が出版した地図である。現在その書店は無い。いつかその地図を掲載してみようか。 現代建築は悪くすると耐用年数30年というところだろう。人生90年時代のようだが、その人生のうちに住んでいる街の風景は3度も変わる。・・・人間、晩年になって分かるのだが、「記憶」が人生を豊かにする。・・・私は、郷愁にひたるのではないが、そう思う。 【訂正】文章の冒頭、「湯島の白梅」の原作を尾崎紅葉「金色夜叉」と書いてそのままアップロードしてしまいましたが、これは泉鏡花の「婦系図」の間違いです。紅葉は鏡花の師。そして「金色夜叉」の主人公は貫一お宮。「♪熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ〜」ですね。まちがいを風呂に入っていて気がつき、あわてて飛び出し、訂正しました。記憶について書いたのに、我ながらあきれています。すでにアクセスしてくださった方がたくさんいらしたようで、すみません。・・・もう一度風呂に入り直します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 29, 2024 02:42:34 PM
コメント(0) | コメントを書く
[日常雑感] カテゴリの最新記事
|
|