明日3月11日は東日本大震災から13年目になる。復興はいまだに完全ではない。福島第一原発事故処理も然りだ。しかしながら、異常なほど記憶力が欠如する国会議員や、司法も行政も、まるで他人事のような振る舞いの13年間だったのではあるまいか。能登沖震災にしても、すでに2ヶ月有余が経過しているが、道路さへ不通のままだ。
先月のある日、私が住んでいる地区の方々が隔週で行なっている高齢者サロンに、民生委員退任後1年ぶりに出かけた。私が訪ねなかった間に、たくさんの顔見知りが亡くなっていた。何か話しを、と請われて私は亡母の在宅看護の実情をありのままに話した。また東日本大震災のときの様子もくわしく話した。
母は末期にはさまざまな電子医療機器に繋がれての在宅医療だったので、震災時の電源消失は即座に死活の事態だった。それらの機器のレンタル契約会社や薬局、そして主治医の文字通り間髪を入れない素早い対応があって、母の命は救われた。そしてまた、介護人・・・つまり私が自分の身体を気づかないうちに損なっていたのか。ある日、母の主治医が私の様子を見て、「お兄さん、ちょっと診せてください」と、母の介護ベッドの傍で私を診察した。「病気寸前のところです。すぐに病院に行ってください」と主治医は言った。
以前私はこのブログに、血圧測定日記と1日の食事記録を毎日欠かさず書いていると述べた。じつは主治医の勧めですぐに病院に行ったときから始まったことだ。血圧測定日記は1年間にちょうど1冊。現在12冊目である。
・・・高齢者サロンでそんな話をしたのだった。少し暗い話だったので、私は「歌いましょう」と、「浜辺の歌」、海つながりで「桜貝の歌」、それから明るく楽しく「高原列車は行く」を歌った。こんどは歌唱指導に来てくださいと言われたが・・・さあて、さあて。
下に掲載する絵は、震災後まもなくに刊行が予定されていた津波小説集の装丁のためのスケッチである。ある事情で使用されなかった。
山田維史 油彩
Tadami Yamada
次は母の様子の当時のスケッチ。
山田維史
Tadami Yamada