朝日新聞夕刊の文化欄に現在NHKBSで放映中のドラマ「舟を編む 〜私、辞書つくります〜」について紹介していた。三浦しおん氏の小説が原作。私はここ6年間ほどTVをまったく観ていないので、このドラマについては何も知らない。内容は辞書編集者の悲喜こもごもの物語らしい。新聞のサブ・タイトル(惹句)に、〈言葉の暴力「悪いのは選び方・使い方」〉とある。原作者との約束に含まれていると思えるが、原作と異なりドラマでは「言葉の暴力」がより深刻な現代に近い設定なのだとか。
なかなか興味深いテーマを内包するTVドラマである。
そんな新聞記事に触発されて、私自身の所持する辞書・辞典を思うと、かなりの数になる。いま机の周囲に32 冊。寝室の枕元やその他の部屋にも種々置いてあるので、ちょっと数えきれない。たぶん50冊はあるだろう。外国語の辞書が含まれているけれども・・・。
「選び方・使い方」と新聞は書いているが、実際、必要だから50冊の辞書類が家のなかにあるのである。国語辞書は出版社によって採録する言葉が異なる。流行語や通俗語、あるいは符牒のような言葉を採録したために古来のれっきとした日本語が消し去られることが少なくない。「言葉の暴力」ではなく、監修者・編集者による暴力にも似た裁量。ページ数に限りがあるにしろ、言葉を採択する裁量は「宰領」になる危険をはらんでいるかもしれない。
そんなわけで、私は辞書がボロボロになってしまったから、あるいは50年前60年前の辞書だからといって捨てられない。さすがに使用することは無いが、亡父が学生時代に使っていた昭和初期の辞書も私は保存してある。それは表紙も失われているが、むき出しの最初の数ページが口絵で、旧式の戦車などが描かれている。
横道にそれる。台湾の地震被害が報道されている。私たち日本はこれまでの大災害時に幾度も台湾の方々に支援していただいたので、この度の地震被害の大きさに心が痛む。
ところでその被害を伝える映像、とくに台湾TVのニュース映像を見ると、アナウンサーの中国語は理解できないがテロップの漢字の中国語は理解できるのである。その漢字がいわゆる繁体字(旧来の漢字)だからである。中国語の発音ではなくとも、日本式の漢文読みの理解である。
しかるに中華人民共和国(中国)は、国家の方針として異体字(略体字)を使うようになったので、少なくとも私にはほとんど理解できない。繁体字は教育の普及に支障があるという考えのようだが、いまや生まれた時から略体字で育っているので、繁体字を読める中国人はむしろ例外的であるらしい。私が所持している中国語の辞書のひとつは、昭和37年に出版されたものだが、繁体字に括弧して略体字を示している。
中国は膨大な古文献を秘蔵している。しかしそれを読み解き、専門的な研究のとば口を開くために、日本の大学院に留学している方に、私は実際お会いしたことがある。
辞書から離れるが、私が20代から30代に入るころのこと (記録を調べると1974年3月だった)。あるデザイン系タブロイド新聞の編集長が電話でイラストレーションを依頼してきた。仕事の打ち合わせが終わってから、直接会って話をしたくなったと、編集長は言った。あらためてインタビュー記事を書きたい、と。
数日後に私は会社を訪問した。インタビューに入る前に編集長が言ったのである。「じつはお会いして話をしたくなったのは、電話でのヤマダさんの言葉使いでした。私がこれまで接したことがない言葉使いだったからです」・・・私が何と応えたかまったく覚えていないが、たぶん「そうでございましたか」とでも言ったのだろう。
そのときまで自分の普段の言葉使は、子供のころからずっと変わらなかったので、気を止めたことがなかった。一方で他人の言葉使いには敏感だったかもしれない。「選び方・使い方」・・・それがどんなに些細なことがらについてであろうとも、微妙なニュアンスがその人物のすべてを表現しているからである。絵描きとして人間を観察するのは、容貌容姿すなわち外見だけではない。言葉によってもっと分かることがあるのである。