日本語やその使い方が異様な乱れになっているのは今に始まったことではない。今日の朝日新聞夕刊に《神社の銅板270枚盗難 栃木の市文化財 各地で金属盗難急増》と見出しをつけた記事が載った。金属盗難が多発していることは私は知っていた。電線が盗まれたり、道路防護柵や道路標識が盗まれているようだ。貧窮のためというより、公共財を保護し維持してゆく公徳心が金のために心底から崩壊してきているのだろう。・・・ところで、冒頭に述べた言葉の問題は、神社の銅葺屋根の盗難に関わりがあるとはいえ、切り離してもよい。私が気になったのは、盗まれた神社の関係者の言葉使いである。この人は新聞取材に次のように言っている。そのまま引用すると、
「憤りしか感じない。文化財、神社という場所から盗むとはいかがなものか。地域の人が守り続けているい大切な神社から盗むなんて、本当に言葉が出ない」
私がこの言葉の何に首を傾げたのかと、このブログを読んでいられる人は思われるだろうか?
取材に応じた人の心意の誠は疑い得ない。しかしながら私は、「いかがなものか」という言葉がこんなところに使われたことにヘンな気持ちになったのだ。そんな悠長なことを言っている場合ではないでしょう、と。犯罪が行われたのですよ、公共財・文化財が破壊されたのですよ、と。この「盗むとはいかがなものか」という言葉には、「盗んだっていいじゃないですか」という返答のでてくる余地があるということ。「いかがなものか」という言葉の論理は、そのような応えを導き出すのである。・・・まさか神社の関係者だから、「盗人にも三分の理」などと仏心(神心?)で「いかがなものか」と言ったのではないでしょう。
「いかがなものか」という言葉を私たちが頻繁に耳目にするのは、日本の政治家の発言においてである。物事を判断しなければならない局面で、自己の立場を明示しないのである。「みなさん、お分りでしょう? 私の考えがわかりますよね?」近年大流行語になってしまった「忖度」を聞き手になかば強要しているのである。・・・これに対して日本の報道記者たちは追求の鉾先を納めてしまう。政治家はその時点で問題の処理があいまいなまま終了することを知りつくしている。
屋根の銅板を270枚も盗まれた件の神社関係者は、「いかがなものか」という言葉を政治家のように底意を含んで使ったのではない(と私は思う)。新聞取材に対して、政治家が使う言葉を無意識のうちにマネしたのであろう。
「いかがなものか」とか「忖度」という言葉の使われ方は、日本人の美徳とされる「おもいやり」と重なっているように私は思うのだが、どうも日本人の倫理観に揺らぎが悪きに出てきているのではないか。それを助長するかのように、日本語の異様な乱れは、TVやインターネットや、新聞・雑誌等からの悪きマネ(影響)ではないかと私は思っている。不思議なことに、正しい日本語はひろまらず、誤用やヤクザ符丁はたちまち日本全土にひろまる。しかも年齢にさほど関係がないようだ。社会の幼稚化と関係はないだろうか?
付け加えると、日本語を耳から学んだ他国の人たちが、「マジ」とか「ムズイ」とか「ヤバイ」などと言うのを聞くと、私はガッカリしてしまう。せっかく日本語を覚えてくれているのに、と。