『蕪村俳句集』(岩波文庫)のページをめくっていたら、「加茂河のかじかしらずや都人」の句に目がとまった。正確に言えば、その句についての校注に目がとまった。校注者は尾形仂氏。尾形氏は、蕪村の自筆句や蕪村と親交があった人が編纂した遺稿等の現存する現物を追跡調査して、『蕪村全集』を編んだ。
さて、上掲「加茂河の」の句は、「都の人は加茂河(現・賀茂川)に棲息する「かじか」も知らないのか?」というほどのことで、意味はどうと言うこともない。あえて深読みすることはないだろう。尾形氏の校註も、「かじか」は「鰍」、とだけ。しかし私が注目したのはそれにつづく古書よりの次の参考記述である。(岩波文庫 229p. 注377)
「加茂川にて極小なるをゴリといふ。京師の茶人賞翫して羹とす」(篗纏輪)
すでに何度も読み返している『蕪村俳句集』なのに、私はこの注を見過ごしていた。私は、亡母が幼少のころに故郷の土橋(北海道江差近傍の現・厚沢部町土橋)の川で「ゴリ」を掬って遊んだ、と話していたのを思い出した。母の生家は土橋の(昔の)円通寺である。母は、「ゴリ」とは「鰍」のことだとも言った。・・・私は八総鉱山小学校時代、鉱山のもっとも早い時期に親たちが子供達のために龍沢川を堰き止めて水泳プールにした、その上流で「鰍」を掬って遊んでいた。その鰍は極小と称するにはいささか大きく,体長4、5cmから10cmほどもあった。石の下に潜んでいた。
wikipediaによれば、スズキ目カジカ科に属する日本固有種。北海道南部以南の日本各地に分布。地方によってはゴリ、ドンコとも呼ばれる、とある。アイヌ語ではナヌウェンといい、「醜い顔」を意味する、と。
私は川遊びをしながらカジカを醜い顔だなどとは思いもしなかった。しかし、このwikipediaの説明で、上掲の蕪村の句を深読みしたくなる。尾形氏が揚げた『篗纏輪』によって、蕪村は京都の粋人たちが加茂川の鰍を熱い汁仕立てにして賞味しているのを他の都人は知らないのか?という含意を私は理解する。そしてさらに、次のように読めはしないかと思う。蕪村は貧しい人々、下層民に目を向けていた俳人であった。蕪村自身が貧しい暮らしだったともいう。同時に、高名な俳人として高僧や富裕な人々の句会に招かれてもいた。このようなことを総合的に考えて、「加茂河のかじかしらずや都人」は、華やかに賑やかに日々の暮らしを営む都の人たちに、「あなた達は、加茂の河原にかろうじて雨露をしのいでいる貧相の「醜い顔」の人々をしらないのですか?」と言っているのかもしれない。
まあ、私は、いままで見過ごしていた尾形仂氏の校注から、亡母の幼い頃の思い出話を思い出しただけなのであるが。
下の画像は私が子供のころに使っていた図鑑。理科教育委員会編『池や川の生物』(保育社、昭和28年・1953年刊。定価150円)。左ページの上から三番目にカジカの図。
いまこの図鑑で注目するのは、カジカの上にドンコが載っていること。カジカとドンコとを区別している。姿かたちも違う。この点がwikipediaの地方名の記述とは異なっている。
71年前のこどもの頃の小さな図鑑が、現在も私の図鑑類の書棚に収まっている。紙の本は大切に扱えば長寿である。
電子書籍には本の寿命を期待できないのではないだろうか。この私の懸念は公文書の電子化について及ぶ。日本は将来、歴史検証が不可能になりはすまいか、と。見過ごしにできないこと。笑って済ませることではあるまい。
酢漿草
(かたばみ)や心映さぬ鏡かな 青穹(山田維史)
蛍飛ぶ遠き灯影の消えるころ
弓張りや矢筈に露のこぼれけり