あれから35年。チェコスロヴァキアの「熊さん」からの手紙が途絶えてから・・・
1985,6年頃だったが、一通の手紙が届いた。チェコスロヴァキアのまったく知らない人からだった。同国で私の作品が掲載された本を見て、私の住所も記されてあったので作品に惹きつけられたことを手紙で書きたくなったと、英語で書かれていた。そしてその人は写真を撮っているのだが、自分の写真作品を私に送ってもよいか、とも。
当時、私はチェコスロヴァキアで2年ごとに開催されプロフェッショナル・グラフィックアーチストが応募する展覧会として国際的にもっとも高い質的評価を受けていた「ブルノ・グラフィック・ビエンナーレ 1982」に初めて入選していた。チェコスロヴァキアと全く無縁だったわけではない。しかしながら、未知の人から手紙をもらい、作品を観てほしいと言われるとは思いもしなかった。
チェコスロヴァキア社会主義共和国は、1968年、政治的経済的に、また文化的にも自由化の運動が萌していた。「プラハの春」と言われている。しかし、その春の季節は極めて短かった。自由化・民主化を恐れたソヴィエト連合国が同年、1968年8月20日の深夜、チェコスロヴァキアに侵攻し、翌21日の早朝までにチェコスロヴァキアの民主化を阻止することに成功した。「プラハの春」の指導者は逮捕されて、ソ連に連行された。出版が禁止されるなど文化活動は厳しい検閲を受けるようになり、亡命した芸術家もいる。
その歴史的事実を知りつつ私は、社会主義共和国の人がどんな写真を撮っているのか興味を持った。そこで、「作品を見せてください」と手紙を書き、届いた手紙にあった住所宛に郵送した。
どのくらい後だったかは忘れたが、再びその人からパッケットが送られてきた。中に印画紙にプリントした数枚の白黒写真が入っていた。添えられた手紙に、街を歩きながら目に止まった壁を撮影しているのだとあった。その言葉どおり、写真はすべて壁の表面をはしる蜘蛛の巣のような亀裂が写しだされていた。観る者が心に様々なイメージを湧出するであろうような、言ってみれば抽象画のような写真だった。レオナルド・ダ・ヴィンチが「壁のシミを見ていると様々なイメージが浮かんでくる」と手記に書いているが、まさにそのような壁のシミの写真である。壁を写したには違いないが、何処のどんな建物の壁なのかまったく判らなかった。周辺の状況を発信するものは何一つ写っていない。
私は、この人がなぜ私に自作を見せようとしたのか、なんとなく分かるような気がした。おそらく私を「幻想」を絵にしている絵描だと思ったのだろう。そういう絵描ならば、壁のシミ(亀裂)だけを撮影し続けていることを理解するかもしれない、と。
・・・あるいは・・・社会主義国としての何らかの事情があるのだろうか?
いや、私は勝手な推測はしないことにした。そして写真作品についての感想を認めた手紙を書いた。
じつは作品が封入されていたパッケットには、この人の自画像写真も入っていた。もみあげから頬顎へとつづく縮れた髭をたくわえたガッシリした体格の男性である。詳しくは述べていなかったが医療関係の仕事、・・・看護士のような仕事に就いているらしかった。私は心の中で「熊さん」と呼んだ。
二番目の手紙は最初の手紙よりいくらか詳しい内容だったが、英語が得意でないので知人に代筆を頼んだとあり、どうも書く内容にひどく気をつかっているようだ。それは私が書く返事への注意であるとも感じられた。検閲があるのかもしれなかった。
私はともかく作品を送ってくれたことへの礼状を書いた。
それきり連絡が途絶えた。1989年、同国でいわゆる「ビロード革命」が起こり、1993年1月1日、チェコスロヴァキア社会主義共和国は連邦制を解消し、チェコ共和国とスロヴァキア共和国とに分かれた。
「熊さん」はどちらの国に属したのだろうか。そしてお元気なのだろうか。・・・現在、ロシアのウクライナ侵略戦争を思いながら、35年前に私に手紙と写真作品を送ってくれた人を思い出した。
画像はモラヴィア画廊からのビエンナーレ展カタログの郵送パッケージ。粗いボール紙で、40年も経っているので表面はシミだらけ。チェコスロヴァキアの切手。
ブルノのグラフィック・ビエンナーレ展カタログ。私の作品も掲載されている。