台風はすっかり去ったのだろうか。青空が覗いている。初秋の気配・・・と言いたいところだが昼過ぎの気温は30℃だった。
弟が中学校の同窓会だそうだ。一泊二日で会津若松に行くと言った。「そりゃー、いいね」と私は応えたが、弟の卒業中学校は会津若松ではない。現在の南会津町の荒海中学校に入学したがおよそ一ヶ月ほどで転校し、会津若松市に独り住まいしていた私のアパートへやってきた。そして私の母校である第三中学校に移籍した。しかしそれもつかの間、弟は両親のいる札幌市へ移っていった。そして札幌の中学校を卒業した。
このたびの同窓会は一ヶ月ほどしか在籍しなかった荒海中学の同学年同窓会だそうで、私が「しかし、良く知った友達はいないでしょう」というと、「そのとおり」と応えた。そしてつづけて、「八総鉱山小学校の同級生が出席するから・・・」
浅草から鬼怒川を経由して、亡父が田島町議会議員として敷設に努力した野岩線に乗り換え、昔八総鉱山への入り口であった滝ノ原駅(現・会津高原尾瀬口駅)を通過して田島に集合。貸切バスで会津若松に向かう、と。
実は弟も私も野岩鉄道に乗ったことがない。南会津の人たちの明治時代からの悲願だった鉄道敷設に、亡父は、札幌市へ移転するまでの6,7年間、国への陳情や鉄道会社との交渉に多忙だった。そのころ私はすでに両親や弟たちと別れて会津若松市に行っていたので、八総鉱山の毎日の業務もこなしていた父が自宅で客をもてなしたあとで倒れ、一時人事不省になったことも知らなかった。私を心配させまいとして、誰もが口を閉ざしていたのだった。
現在、YouTubeなどで鉄道マニアが旅行動画を披露しているなかに、会津線・野岩線・鬼怒川線の途切れることのない映像を観ることができる。私はそれらを観ながら、トンネルまたトンネルの険しい岩山をくぐり、深い峡谷を望みながら走る路線を、なるほど100年間の悲願もこの地形で実現は困難であったろうと思った。
鉄道が開通したとき、田島町から東京の父(そのとき両親は私と同居するようになっていた)に式典の招待状がとどいた。あいにく父はスケジュールの都合がつかなかった。父が鉄道敷設交渉の仕事から引退して20年くらい経っていたが、田島町は父の努力を忘れないでいてくれたのだった。
弟は同窓会を機会として亡父の努力の成果を見るだろう。私は、・・・おそらくその鉄道に乗ることはない。