驚いた。南会津荒海中学校の同学年同窓会に出席した弟が帰京しての話。
弟はたった1ヶ月しか在籍しなかったので60年ぶりに会うクラスメイトは名前も顔も記憶にない。車に乗せてくれるという親切に、他の二人と同乗させてもらった。お互いに自己紹介し、弟が「山田です」と名乗った途端、ひとりの女性が、「タダミさん?」と言った。弟は驚いて、「タダミは兄です」と応えた。するとその人は、「お兄さんは私の兄と会津高校でいっしょでした。私の兄はサガラ〇〇です。お兄さんと会津高校の文芸部でいっしょでした」
私はこの話を聞いて驚いたのである。サガラ君は荒海小学校2年3年のときの同級生だった。八総鉱山小学校が開校する前のことである。優秀なクラスメイトだった。一度、誘われてサガラ君の関本の家に遊びに行ったことがある。本道から右手に畑を見ながら少し奥まった所に建っていたと記憶する。70年後の今でも目に浮かんでくるのは、戦後10年も経っていない頃、農家が多かった周辺の家屋とはおもむきが違っていた。新築して間もなかったのではないだろうか。
私が八総鉱山小学校に転校後は会うことはなかったが、会津高校入学試験の場でばったり会った。試験科目が終わって短い休憩のとき、別々の教室から出てきた廊下でだった。サガラ君は腰に毛布を巻いていた。冬とはいえ、いささかならず物々しかった。私は風邪でも引いているのかと尋ねた。するとサガラ君は中学で陸上競技の高跳(ハイジャンプ)をやっていて腰を傷めたのだ、と言った。
会津高校ではサガラ君は理数系、私は文系で、クラスが一緒になることはなかった。
妹さんは、サガラ君と私が文芸部で一緒だったと思われているようだが、二人とも文芸部に所属していたことはない。じつは文芸部は本格印刷の文芸誌を刊行していて、サガラ君も私も部外から投稿していたのだ。二人の作品が同時に掲載されていたのである。私は掲載誌を受け取ると真っ先にサガラ君の評論を読んだ。そう、サガラ君は社会評論を発表していた。私はといえば、今思えば感傷的な随想風な半小説だった。私はサガラ君の文章に「すごいなー!」と、悔しさを隠しながら感嘆していた。私の作品は、他校の女子高校の生徒たちには人気があると人づてに聞いたけれども。
しかし、本当に驚いた。顔を合わせたこともない、妹さんがいることさへ知らなかったサガラ君の妹さんが、私の名前を憶えていてくださったとは! 79歳、こんなこともあるんだなー。
荒海小学校2年生終了時 昭和29年3月(1954年)
左:サガラ君 右:私