袴田巌氏の死刑が確定していた再審理の判決が静岡地裁(国井恒志裁判長)であり、無罪が言い渡された。23年10月から24年5月まで15回開かれた再審の後、判決にあたって静岡地裁は、争点になった事件後約1年2ヶ月後に発見された「5点の衣類に付着した血痕」を含む検察が提出した三つの証拠(他に「自白調書」と「衣類から切り取ったとするズボンの切れ端」)について、捜査機関が袴田氏逮捕後に捏造した、と判断した。そして、これらを証拠から除くと他の提出証拠は証拠として証明できないとして、それゆえ袴田巌氏を犯人と認定できない、と述べた。
この1966年6月に起きた強盗殺人および放火事件に関する裁判は、68年9月に静岡地裁で死刑の判決が下され,
80年12月に最高裁で死刑が確定していた。
袴田氏は逮捕20日目に「自白」したと言われる。しかし裁判法廷では一貫して無罪を主張していた。第2次再審請求審で静岡地裁は14年3月に再審決定を出した。袴田氏は釈放されたが、東京高裁が18年6月に再審開始取り消しを決定した。20年12月、最高裁は審理を高裁に差し戻し、東京高裁は23年3月に捜査機関による証拠捏造の可能性について言及して再審開始を認めて確定していた。
死刑が確定した判決が再審によってくつがえる確率は日本の法制度においてほとんど不可能に近いと言われる。
1966年6月に起きた事件の2ヶ月後に袴田氏は逮捕されたのだったが、以来、58年間の長きにわたり捜査機関の「犯罪」によって死の淵に立たされたまま人生を失わされてきた。長い収監によって袴田氏の精神は病んでしまった。
私は法学部の学生だったときに、日本の冤罪事件について講義も受け、自分でも文献を読んで勉強していた。袴田事件は私が在学中のことであった。もちろんその頃は判決が下されていなかったが、逮捕後およそ1年2ヶ月後に被害者の工場の仕込み味噌樽の味噌のなかから、まだ「赤」みのある血痕がついた衣類が発見されて、証拠として法廷に提出されたときから、おそらく世間一般のなかにも冤罪の疑いがでてきたのではあるまいか。そして死刑判決が下された時、その疑いは一層強くなったかもしれない。袴田氏を支援する人たちも少なくはなかったのである。
◯ 朝日新聞ディジタルが他紙に見ないデータを掲載している。
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朝日新聞ディジタル「袴田巌さん58年後の無罪 前代未聞の事件を数字からたどる」
CNN 「世界で最も長く拘置された死刑囚、袴田さんに無罪判決」
朝日新聞ディジタル「無実訴える袴田さんを厳しく追及 当時の取り調べ音声」