世に博識な人は数知れないが、古今東西の書物を渉猟し、しかしその知識の蓄積から時代を超えて遍く人類の生存に寄与する自らの哲学・思想を現代に構築し得た人はどれほどいるだろう。・・・随分大仰な言い方だと我ながら思わないでもないが、渡辺一夫先生の御著作を読むとき私はいつも上述のような思いが胸に去来する。
ところで、昨今、様々な分野で生成AIが取り沙汰されている。「デジタル大臣」などという新名称の大臣位ができて、その政策は行く末まで深く考えたのでもなさそうな思いつき。思いつきを公言して、あとからバタバタと穴埋めをしているとしか思えない。それはともかくとしても、世界中が人工知能に絡め取られて進行していることは間違いない。いたるところで戦火を交えているが、現代の戦争は二つの手段による。すなわち先端的AI兵器使用とAIによる情報戦略である。
と、私は思い出すのが、渡辺一夫先生のお書きになった一文。先生は雑録と称していられるが、ラブレー研究の考証の一端、『ラブレーと「人間不在」』である。その文中で、アンリ・ベルグソンが「笑い」に「社会的制裁」を認めたことを周知として、この場合の「社会」とは、持続し前進する生命体であって、固定し続け老朽硬化の道を辿る生命体ではない、と短く解説し、さらに次のように述べていられる。
〈(略)・・・いかなる現象が「笑い」を誘発し、「警報」「制裁」の対象となるかというに、ベルグソンは、これを要約して、「生々したもの(生きたもの)に貼付けられた機械的なもの」du mecaniqué planqué sur du vivant としていることも周知のことであろう。そして、機械及び機械的なものは、「人間不在」なものであるが故に、生命体とは無縁なもの或いは異質なもの或いはこれに敵対するものと考えるが故に、「機械的なもの」が「生々したもの」に添えられた時には、「警報」が発せられるということになるわけである。「機械万能」を理想と考え、ユートピヤならぬ所謂コンピュートピヤなるものの到来を待ち侘びている人々や、自らが機械の一部分となってがらがら廻っていることを自覚しない人々にとっては、この「警報」の意味を理解してもらえる筈はないし、「笑い」に見出される「社会制裁」の機能を考えてもらうわけにはゆかないだろう。自ら「人間不在」の世界を欣求し、これを理想としているからだし、自ら「生々したもの」から「機械的なもの」へ変身することを望んでいるからである。「人間不在」の世界にも「機械」にも、「笑いはない。」(『異国残照』p.412。文藝春秋 1973)
長い引用になった。この『ラブレーと「人間不在」』が発表されたのは1968年である。マイ・コンピューターもなければ、インターネットもなく、写真伝送さへ容易にできるモバイル・フォーン(携帯電話)もなかった。文中の「コンピュートピヤ」は今や現実世界であり、「ユートピヤ(存在しない世界)」どころではない。全世界が人工知能に絡め取られ、唯一人間だけにそなわった「想像力」と「想像力」を、嬉々として人工知脳(AI)に譲り渡そうとしている。それらを譲り渡しても人間はあらたな「生命体」としての豊かな未来へ向かって行けるのだと、まさに宣言しようとしているのかもしれない。自然を消滅させて、それを「進歩」と称してきたように、「人間不在」を進歩的な未来の豊かさとして。・・・だがしかし、それができるだろうか? なぜかと言うに、未来設計はAIの手の内にあり、その能力は過去のデータの集積からの選択構成でしかないのではないか?
今後人間は、その「生命体」としての短い一生を、「人間不在」という自己撞着のまま終わるのかもしれない。
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昨夜この日記をアップ・ロードしたのだが、今朝、見直すと半分以上が消えていた。こういうことは、ままあることながら(機械まかせ、ITまかせだから)、私がこの短文で何を言おうとしたのか、もし読んで下さった方がいらしたら、まったくお分かりにならなかっただろう。記事不在である。そこであらためて消えた半分を書き足した。(10月4日 記)