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テーマ:猫のいる生活(138412)
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力道山と云うプロレスラーの名前だけは、今の若い人でも聞いたことあるでしょう。
まさに日本のプロレス黎明期に大活躍した大きい存在で、まだTVが高価で一般の人がTVを買えなかった1950年代初期、街頭に据え付けられたTVを大勢の人が取り囲んで熱心に観ていた時代、もっとも人気を博したのが力道山のプロレス中継だったのです。 なにしろ当時のTVは、大卒初任給が約1万円だった時代に、TVの値段は約24万円もしてたのですから、庶民には全く手の届かない製品だったのですね。 これが致命傷になって数日後に力道山は帰らぬ人になったのです。 このホテルニュージャパンと云うのは、昭和57年2月8日に宿泊客の寝タバコ不始末から火災が発生して、ホテルの建物構造の問題に加え、オーナー兼社長だった横井英樹が利益優先主義で貧弱な防火管理体制しかとっておらず、死者33人、負傷者34人を出す大惨事になりました。 この火災によって横井英樹は刑事責任を問われ、業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決を受けることになります。 ニューラテンクォーターは火災後もひっそりと営業を続けてましたが、事故のあったビルではお客も足が遠のき、1989年になって店を閉じてます。 ニューラテンクォーターは、ステージショーを主体にしたナイトクラブの先駆けで、ホステスだけで100人を抱える伝説的な社交場でした。 2時間も遊べば、大卒の初任給が一瞬で吹っ飛ぶ日本一高級なクラブです。 なにしろ平均給与が6万円の時代でも、ここのカバーチャージは12万円もしたんです。 ここのステージに上がるのも一流ミュージッシャンばかり。 お客もハリソン・フォード、ロバート・デ・ニーロ、フランク・シナトラなど海外著名人も多く利用してました。 ミュージッシャンの出演交渉はキョードー東京の前身「協同企画」が行なってましたが、私が在タイ時務めてた会社が多角経営でナイトクラブもやってました。 社長が協同企画と馴染で、そんな縁からグループのナイトクラブは、ニューラテンクォーターと相互提携おこなってて、出演者がバンコクにも登場することがありましたね。 そんなニューラテンクォーターにアメリカのジャズピアニストで歌手のナット・キング・コールが登場したのは1963年(昭和38年)のことです。 このライブショーはTBSで録画放送されました。 ナット・キング・コールは、スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストですね。 歌では「モナ・リザ」や「スターダスト」、「トゥー・ヤング」、「スマイル」などヒット曲が目白押し。 ナット・キング・コールの娘がシンガーソングライターのナタリー・コールです。 幼いころから歌手として活躍してましたが、彼女が25歳のとき出したデビュー曲の「ジス・ウィル・ビー」でグラミー賞の最優秀R&B女性ボーカル賞、最優秀新人賞に輝きました。 しかしアメリカのミュージッシャンお馴染みの麻薬中毒に彼女も陥って、1980年代になるとたちまちセールスも落ち込み。 一旦は芸能界から姿を消しましたが、1988年に「ピンク・キャデラック」のヒットでみごと復活。 1989年にはビルボードのR&B部門とアダルト・コンテンポラリー部門ともに第1位の栄誉に輝きます。 ナタリー・コールは2015年に心臓疾患で亡くなってます。 享年65歳。 父親のナット・キング・コールは肺癌のため45歳で死去してますから、なんとも早死の家系だったのですね。 最後に亡き父が歌った音源とのオーバーダブによる「共演」が大きな話題を呼んで、グラミー賞ソング・オヴ・ザ・イヤーに輝いたナット・キング・コールの「アンフォゲッタブル (Unforgettable... with Love)」を。 ナタリー・コールのこのカバーは全米ポップチャートで5週連続1位というジャズ作品としては異例の大ヒットを記録して、グラミー賞最優秀アルバム賞も受賞してます。 Natalie Cole & Nat King Cole "Unforgettable" 1991 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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