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テーマ:猫のいる生活(138412)
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きょうはほとんどのご婦人方には縁のない話で...
現在、日本には日本ボクシング史上、一番強いと云われてる井上尚弥がいます。 彼は世界から「モンスター」と恐れられ、WBA(世界ボクシング協会)、WBC(世界ボクシング評議会)、IBF(国際ボクシング連盟)、WBO(世界ボクシング機構)と云う4つのボクシング団体で、世界スーパーバンタム級4団体統一王者としてベルトを総なめしてる選手です。 井岡一翔の叔父が井岡弘樹。 井岡弘樹もまたWBA世界ライトフライ級王者だった人で、ど~云うワケか私が現役時代、この井岡弘樹の所属するグリーンツダジムの担当になって、なんどか無料で井岡弘樹の試合を見させていただきました。 名トレーナーとして有名なエディ・タウンゼント最後の弟子が井岡弘樹です。 私らの世代はボクシングとパラレルワールドでした。 フライ級三羽烏と呼ばれた海老原博幸、ファイティング原田、青木勝利を始めとして、北海道日高町出身で現在は解説者として活躍してる沼田義明、フェザー級とスーパーフェザー級の世界2階級制覇をした柴田国明、同じくWBA、WBC世界スーパーウェルター級王者の輪島功一。 現在はタレントとして活躍してるWBA世界ライトフライ級王者の具志堅用高、トカチャンでお馴染みWBA世界ライトフライ級王者の渡嘉敷勝男、WBC世界バンタム級王者の辰吉丈一郎、WBC世界バンタム級王者で4度王座を防衛した薬師寺保栄、現在はYouTube でもお馴染み日本人で初めてWBA世界ミドル級王者になった竹原慎二、これも今はタレントして活躍してますが、WBC世界バンタム級、WBC世界フェザー級、WBC世界スーパーバンタム級と世界3階級制覇した長谷川穂積、そしてOPBF東洋太平洋フライ級王者の内藤大助と世界チャンピオンが目白押しです。 ノンフィクション作家の沢木耕太郎の短編集「敗れざるものたち」に収録されてる「クレイになれなかった男」は、世界に挑戦しながら挫折したボクサーの再起を掛けた戦いを1年半に渡って綴ってます。 この「クレイになれなかった男」とは誰のことでしょう? 谷村新司の名曲「チャンピオン」のモデルになった実在した人物です。 谷村が仕事で沢木耕太郎と対談した際、沢木に誘われて下北沢の金子ジムに出向きました。 そこで鬼気迫る練習をしていたのが「チャンピオン」のモデルだったのです。 「もう仰天したんです。彼のすさまじいパワーと迫力に圧倒されてしまって」と谷村。 しかし沢木から意外な事実を知らされます。 「彼には一つ弱点がある。優しすぎて、敵にとどめをさせないんだ」。 そのボクサーとはアメリカ人の父と日本人の母をもつ、横浜育ちの"カシアス内藤"です。 現役時代は世界ミドル級1位まで上りつめて、「和製クレイ」と呼ばれたハードパンチャーです。 彼のリングネーム「カシアス」は1試合の視聴者数が推定10億~20億人を記録し、1996年のアトランタオリンピックで聖火台に点火したシーンは世界中で推定35億人の視聴者数を記録した偉大なボクサー"モハメド・アリ"の改名前の名前「カシアス・クレイ」からとったものです。 この名付けはカシアス内藤がアリと対面した際、承諾を得ています。 カシアス内藤は、デビュー翌年から井岡弘樹が最後の弟子となった名トレーナー"エディ・タウンゼント"の指導を受けると連勝街道を邁進し、無敗のまま1970年に日本ミドル級チャンピオン、1971年には東洋ミドル級チャンピオンを獲得します。 ところが後に輪島功一を倒して世界チャンピオンになった韓国の柳済斗に敗れて、東洋ミドル級タイトルを失ってしまうのですね。 王座陥落の理由が生来の気が優しく精神的に脆い面が災いしたためです。 特別に恵まれた才能を持ちながら、精神面の弱さがずっとつきまといました。 そうして世界スーパーウェルター級王者の輪島功一とノンタイトル戦ながら対峙することになります。 この試合くらいすさまじい打ち合いとダウンの応酬にくれた試合はありません。 このときもカシアス内藤は試合前に「せっかく仲良くなった輪島選手と試合をするのがイヤだ」なんて泣き言。 試合はスタートから輪島が攻勢を取りますが、カシアス内藤もいつになく強気に打ち合い会場は盛り上がります。 5ラウンド、ついに輪島が右ロングフックを決めて先制のダウン、さらに右アッパーで2度目のダウンを奪います。 試合ルールでひとつのラウンドに3度ダウンすると負けです。 ところがカシアス内藤は踏ん張り、何とパンチで輪島からダウンを奪い返したのです。 会場は興奮のルツボ。 次の6回も激しいパンチの応酬から、輪島のパンチが炸裂してカシアス内藤は2度のダウンを喫します。 しかしダンウンにめげず粘り抜いてゴングまで耐えます。 後のないカシアス内藤は7ラウンドになると歯をむいて輪島に立ち向かいます。 輪島は防戦一方。 しかし、ちょっとしたスキに輪島にフックを打たれダウン。 さらに小さなパンチの連打を受けてさらにダウン。 ここでレフリーが試合続行不能と見て試合をとめます。 輪島の勝利に終わりましたが、波状攻撃によく耐えたカシアス内藤の頑張りに会場からは温かな拍手が送られました。 この試合後、カシアス内藤は精彩を欠き、1974年に後のジュニアミドル級世界王者となった工藤政志に判定負けして、表舞台から姿を消しました。 4年後の1978年に突然復帰すると、たちまち2連勝。 その余勢を駆って翌年にソウルで朴鍾八と東洋・太平洋ミドル級王座決定戦に挑みましたが、2回KO負けを喫し、そのまま現役を引退しました。 「クレイになれなかった男」は、「燃え尽きたい」と願っても「燃え尽きることができない」悲哀を描き、恵まれた才能を持ちながら、あと一歩の処でチャンスを掴み切れなかったカシアス内藤の物語なんですね。 皮肉にもその名を頂いたカシアス・クレイが無尽蔵に持っていた勝利への飽くなき執着が、カシアス内藤には欠落していたのです。 カシアス内藤は引退後、咽頭ガンで余命3ヶ月の告知を受けたことを公表してます。 それでも2005年に、沢木耕太郎の協力を得て、横浜市中区に念願だったボクシングジム「E&Jカシアス・ボクシングジム」を開設するのです。 このときカシアス内藤は「声が出せないと選手を指導できない」とガン摘出手術を拒んでます。 にも関わらず摂生に努めた結果、今では日常生活に支障ないくらいまで回復してるんですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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