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テーマ:猫のいる生活(138418)
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アメリカ大統領選が11月に実施されるにあたって、バイデン大統領の高齢化(81歳)に伴う有権者の懸念とトランプの優勢がなにかと話題にあがってますが、1860年(万延元年)の大統領選では奴隷制が争点のひとつでした。
結果、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選したのですね。 アメリカでは奴隷は個人の私有財産だったのですが、翌年、リンカーンが大統領に就任すると南軍がサウスカロライナ州チャールストンの港に位置する石造りのサムター要塞を砲撃して戦端が開かれました。 いわゆる南北戦争の端緒だったのです。 この戦争は奴隷制がキーポイントのように喧伝されてますが、その背景には北部と南部での経済的な相違があったのですね。 北部では米英戦争でイギリス工業製品の輸入が途絶してました。 そこで独自の工業化を進めるにあたり新たな流動的労働力(つまり移民)を必要とし、奴隷制とは相容れなかったのです。 それに対し、南部では北部と違ってイギリスの自由貿易圏に属することが必須だったのです。 南部は、農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していました。 プランテーション経済は黒人奴隷の労働により支えられており、農園の所有者が実質的に南部を支配していたのですね。 その栽培した綿花はイギリスに渡って綿織物として商品化され、それがまたアメリカなど他国に大量輸出されてたのです。 どんな戦争でも根本は自分たちの利益が主眼なんですな。 この南北戦争でひとつのキーポイントになったのが「コーヒー」。 コーヒーが? つまり兵士の戦意高揚にコーヒーがキーになったのです。 南北戦争が始まって10ヶ月経ち、北軍は重要な物資であるコーヒーが不足するようになりました。 当時、この重要なエネルギーと士気の源は、火薬とほぼ同じくらい重要であると考えられていたのです。 北軍のベンジャミン・バトラー将軍は兵士たちに常にコーヒーを持ち歩くよう命じましたが、そもそも持ち歩くコーヒーが不足したのです。 北軍兵士には毎年約16kg のコーヒーが支給され、ライフルの尻や銃剣の柄でコーヒー豆を砕いていたと云います。 一部のカービン銃には銃床にコーヒーグラインダーが組み込まれているものも有りました。 このころアメリカに輸入されるコーヒーはブラジルが供給源でした。 ところが1863年には、このブラジル産コーヒーの輸入が港の封鎖などで1860年に比べて50%にまで落ちたのです。 それに対して戦争が始まって、戦争に参加する兵士は増え、需要は4倍にまで膨れ上がったのです。 キャンプファイヤーを囲んでも、話題の多くはその日のコーヒーの質に関するものだったのです。 兵士がコーヒーを嘱望したもうひとつの理由は「水」です。 戦地では安全な水なんてそうそう有りません。 なのでコーヒーが60℃になるまで待つだけで、ほとんどの腸内病原体を死滅させるのに充分だったからです。 しかし、有望な打開策が見つかりました。 北部奴隷制度廃止論者と西アフリカのリベリア国民との間で同盟が結ばれたのです。 リベリアの第2代大統領スティーブン・アレン・ベンソンは、大統領就任前の1848年には、クエーカー教徒の商人で活動家のジョージ・W・テイラーと提携関係を結んでいました。 テイラーのフィラデルフィアにある「自由労働倉庫」では、奴隷による労働を使わずに作られた商品、食品、衣類を独占的に販売していたのです。 リンカーンはリベリア共和国を正式に承認し、戦費調達としてコーヒーの輸入関税を1ポンド当たり4セントに引き上げましたが、それでもリベリア産のコーヒーは北軍に大量に取り込まれたのです。 それに対して、南軍ではコーヒーが滑稽なほど不足するようになりました。 バーモント州の兵士は「最も裕福な農園主でも1年以上、お茶もコーヒーも飲んでいない。質の悪いコーヒーがここに持ち込まれたとしても、約450g あたり8$で売られていた」と述べてます。 南軍兵士たちは夜明け前の明かりの中でキャンプファイヤーに身を寄せ、ドングリのかすやサツマイモ、その他の怪しげな材料から淹れた、不味いコーヒーの代用品で凌ぐしかなかったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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